は、過去の歴史に対する今日の歴史の本質として深い省察と苦悩とを与えるものだが、それ故にこそ、なお鴎外の「阿部一族」の完成の上に更に何かを感じ求める今日の読者の心持は、今日の心として肯定され評価されてなければならないのではあるまいか。
「阿部一族」に対する読者の満足と同時に感じられるもう一寸何かというこの発展の欲求は、又作者鴎外の心にも感じられていたらしい。
「佐橋甚五郎」は「阿部一族」が書かれたと同じ大正二年に、二ヵ月ほどおくれて執筆されている。家康とその臣佐橋甚五郎という武芸に秀で笛の上手で剃刀のような男とが、一くせも二くせもある人物同士が互に互を嗅ぎ合い、警戒し合う刹那の心理の火花から、佐橋が家康の許を逐電する。二十四年後、朝鮮から来た三人の使者のうち喬僉知と名乗っているのが、家康の六十六歳の眼にその朝鮮人こそ正しく佐橋甚五郎と映った。「太い奴、好うも朝鮮人になりすましおった。」そして、怱々《そうそう》にして土地を立たせろと命じた。佐橋甚五郎が小姓だったとき同じ小姓の蜂谷を殺害したそのいきさつも、その償として甲斐の甘利の寝首を掻いた前後のいきさつも、主人である家康の命には決してそむいていないのだが、やりかたに何とも云えぬ冷酷鋭利なところがあって、家康は手放しては使いたくない人物だという危険を感じている。その家康の心を知った佐橋は、「ふんと鼻から息を漏して軽く頷いて」つと座を起って退出したなり逐電したのであった。
岩波文庫本の解説で、斎藤茂吉氏は「甚五郎という人物はやはり鴎外好みの一人と謂って好いであろう」と云っておられるが、鴎外はこの佐橋の生涯の行きかた、それへの家康の忘れない戒心というものを、只、好みの人物という視点から扱ったのだろうか。
阿部彌一右衛門は、人間の性格的相剋を主従という封建の垣のうちに日夜まむきに犇《ひし》めきとおして遂に、悲劇的終焉を迎えたが、佐橋は君主である家康が己《おのれ》に気を許さぬ本心を知ったとき、恐ろしく冷やかな判断で、そのように狭くやがては己が身の上に落ちかかって来るに相異ない封建の垣を我から一飛びに飛び越して逐電した。鴎外はこの性格の対照、君臣のしきたりに対する態度の対照を面白いと思って佐橋甚五郎という短篇を書いたと思われる。
佐橋と阿部とは生きかたに於て正反対であるけれども、それはやはり飽く迄性格的なものとして見られていて、作者は、佐橋の朝鮮までの高とびの因子が、到るところに垣を結っている息苦しいその時代の君臣関係の、臣として求められる限界性への反作用という点でテーマを扱ってはいないのである。結われてある社会的な垣は垣として存在を肯定して見られているのである。
「高瀬舟」は、大正四年の作で、鴎外の歴史ものとしては、どれよりもはっきり、社会通念への疑問をテーマとしてかかれたものと思われる。「高瀬舟縁起」という文章で、鴎外は「翁草」によっているこの短い作の中に「二つの大きい問題が含まれていると思った」ことを述べている。「一つは財産というものの観念である。」「今一つは、死に掛っていて死なれずに苦しんでいる人を死なせてやるということである。」即ちユウタナジイの問題である。高瀬舟の罪人喜助の場合はそれであったように思われる。その二つの点を面白く思って高瀬舟が執筆されたのであった。
「高瀬舟」の書かれたそれらの動機を今日に見る面白さは、「佐橋甚五郎」あたり迄の作品では、武家気質そのものが個人の主観の内容をも表現の形式をもなしているままに歴史を描いて来た作者が、「高瀬舟」では通念の代弁者である小役人庄兵衛に対して、全く個人の主観に立って安心立命をも得ており、弟殺しとして罪に問われたことも自分には十分わかっている真の動機からその心を腐らせるものとはなっていない不幸な喜助の個人の必然としての主観の世界を正面から扱っている点である。
先にふれた三つの物語の時代より、この「高瀬舟」はずっと後代の物語であり、一方は武士社会のことであり、これは姓も持たない白河楽翁時代の江戸の一窮民の運命である。鴎外が、当時の江戸の庶民生活のありようの一典型として喜助のめぐり会わせを追究していないとこも、一方には注目される。作者を動かしたつよいモティーヴの一つであるユウタナジイの問題にしろ、同じ事情が武士の兄弟の間におこったとしたら、当時の通念はそれを庶民喜助の場合に対してと同様に判断したであろうか。兄と弟という順を逆にして弟と兄とのことであったら、どうであったろう。これらの点についての社会の判断は明らかに武士と庶民に対して違った標準で見られたであろうと思える。弟と兄と逆になればおのずと違ったものの在ったろうと思えるのも、時代が封建であったからである。
財産についての観念も、扶持もちの侍と喜助とでは全く別世界のものである
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