生命への蔑視を、これらの作品はつよく否定して、人間の生きんとする意志を肯定している。
「義民甚兵衛」が、「甚兵衛様は笑って死になさった」と数万の群集に賞めたたえられつつ、領主の磔柱の上で生涯一度の愉快そうな笑いを笑う。この笑いを作者は、惨酷に甚兵衛を扱いつづけていた継母、異母弟への報復の哄笑として描き出している。義民、英雄というものに向けられて来た、盲目な崇拝の皮を剥いで示そうとしているのである。
「極楽」の退屈さに苦しんで、地獄を語り合うときばかりは蓮の台《うてな》に居並ぶ老夫婦の眼に輝きが添う姿、「羽衣」をかたに天女を妻とした伯龍が、女の天人性に悩まされて、三ヵ月の契約をこちらから辞そうとしたら「天に偽りなきものを」と居つづけられて、つよい神経衰弱に陥ったという物語は、何と私たちを笑わせ、そこにある一つの実際を肯かせるだろう。
 しかしながら、菊池寛のこれらの時代ものを素材としたテーマ小説をよみ終ると、私たちの心にはやがて新たな疑問が擡頭して来ることを否めない。成程、あらゆる人間はあらゆるとき生を欲している。しかしその表現の歴史としての複雑さは、三浦右衛門や俊寛の世界に描きだされているきりの形しかもたないものだろうか。生のそのようなつよい力は、死の形を積極的に変化させる力となって歴史の様々な時代にそれぞれの表現をとるのではないだろうか。義民にしろ、英雄にしろ、それに対する封建の伝習は否定して、しかも猶民衆の要求の焦点として歴史のなかに存在するものではないだろうか。そして、それは甚兵衛の場合のような周囲の必然と個人の心理を動機とするより、もっと異った人間と歴史の他の積極面で発露することもあるのではなかろうか。いろいろとそういうような詮索が感じられて来て、読者は、これらの菊池寛のテーマ小説が、人間性に率直明白に立ちつつ、それらのテーマの本質は封建世界に向ってうちかけられている疑問であるが故に生新であるが、その基本は近代常識の極めて小市民風な実際性に立つ暴露に置かれていることを理解して来ると思う。
 菊池寛のこの人生と歴史へのテーマの本質のありようが、芥川とどんなに相反するものであったかということは、大正末期、欧州大戦後の日本の社会が画期的波瀾にめぐり会ったとき、芥川はあのような生涯をとじ、菊池寛は「真珠夫人」等によって大衆文学の領域に進み出し、テーマの常識性、合理性
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