の日本らしく低められた水準、要素そのものによって成功をかち得て今日に到っている現実に雄弁に語りつくされていると思われるのである。
 菊池寛は「義民甚兵衛」の生と死とを、あくまで人間の利害得失の打算、必要の相互関係のなかで発揮された一個人甚兵衛の彼にとって最も効果的な命のすてかた、敵の殺しかたとして観察しているのであって、そのような機会をつかんだ甚兵衛の辛辣な笑いに表現された復讐の対象に、象徴されるべきより広汎なものは掴んでいない。
「義民甚兵衛」の作者が徐々に大衆文学に移って行ったその時代に日本の文学は質的に一変転を経過して、このような個人としての利害に行動した甚兵衛も猶当時の周囲の農民の生活のありようの中でみれば、一個の犠牲であった歴史の現実までを描き出そうという努力を自覚する時期に入った。
 藤森成吉の「磔茂左衛門」片岡鉄兵の「綾里村快挙録」などは、歴史のなかにおける個人の関係を個人の自然主義風な本能的なものからのみ見ず、社会において彼等の日々の生活がおかれているその現実の諸相からの反映、又それへの主観的な働きかけの歴史性において、歴史を描こうとした小説であった。歴史そのものに働きかけてゆく歴史の力として描き出そうとしたのであった。

 今日、日本は刻々に最も深刻な歴史的な生活を経験しつつあるのであるが、歴史というものは今日の文学の中でどのように見られ、感じられ扱われているであろうか。ここに非常に錯綜した課題が在ると思う。歴史一般が、今日は重く顧みられているが、それは過去の炬火として今日へ光りをそそぐべきものとして扱われていて、今日の現実の光が過去の現実を明晰にして明日の糧とするという意嚮に立つ面は弱いと思われる。いくつかの文学作品の題材は、過去に求められて成功もしているのだけれど、その社会的なモティーヴはどこにあるだろう。今日の現実を真に歴史的に描きつくした上で創作の欲求が過去にまでさかのぼった姿であろうか。或は又、現実の文学化に堪え得ない何か事情が内外にあって人々は題材を過去にかりようとしているのであろうか。
 この問題は、今日伝記小説というもののありようとも併せて考えられなければなるまいと思う。欧米でも伝記小説は流行している由であるが、それに対して批評家は、今日のヨーロッパにおける文芸思潮の指導性の喪失の表現として観察している。日本には島崎藤村という現存の
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