いう若い激しい性格の封建の主君が、君臣関係のしきたりによって自分がおかれている偽りの世界への憤懣から遂に狂猛な暴君のようになり、隠居とともに天空快闊となった次第を語っている。作者は忠直卿とともに、人間関係の真率、偽りなさ、まことの現実を求める人間の情熱を辿ってはいるが、虚偽を生む社会関係を主体的に忠直卿から判断させてはいない。被動的に隠居仰せつけられその外力によって、社会関係の一部が変えられる迄は、さながら、自分からの解決の方法はないように旧態にとどまっている。ここが作者の人生態度としてもなかなか面白い点であろうと思う。忠直卿は、昔の殿様としてはびっくりするくらいむき出しのヒューメンな若者として扱われており、その点では作者が一見常識を蹴とばしているようだのに、さてそれならそのように苦しむ自分を虚偽と知らぬ虚偽でとりかこみ、それを命にかけて守っている者どもとの関係を我から一擲変更して、ええ面倒な、と隠居してしまうところまで飛躍してはいない。やはり仰せつけられるまではそこにいて、自分と周囲を不幸にしている。世の中をそのようなものとして、作者は見ているのである。
菊池寛は、歴史的題材をあつかったあらゆるテーマ小説で、封建的な勇壮の観念、悲愴の伝統、絶対性への屈服、恩と云い讐というものの実体等に対して、真正面からの追究を試みている。菊池寛は文学的出発において、バアナード・ショウの影響を蒙って一種の合理主義の人生観に立っていたと云われている。けれども、彼におけるその合理主義は決してショウのものではなくて、菊池寛という一個の日本の作家の身についているものであったことは、その合理性そのものが、当時の日本の思想と文学潮流とにとって或る意味では生新なものであったにかかわらず、本質の要素に日本の自然主義的な日常性と常識とをひきついでいたことからも明らかであると思われる。
この点でも菊池寛は芥川龍之介と対蹠をなしている。
菊池寛は、「三浦右衛門の最後」「俊寛」等で武士道徳のしきたりよりも更に強い人間の生命への執着と生の力の強靭さというようなものをその原形において押し出している。風変りな俊寛は、鬼界ヶ島で鬼と化した謡曲文学の観念を吹きはらって、勇壮に鰤《ぶり》釣りを行い、耕作を行い、土人の娘を妻として子供を五人生み、有王を驚殺するのである。日本の封建の伝統が近代日本の心にも伝えている
前へ
次へ
全13ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング