された経験をもつだろうと思う。それは、日本を愛するわが故国として初めて地理的にも客観する立場に立ったことのおどろきと新鮮な感動、同時に、身辺に熱い音を立てて流れめぐり諸関係を変化させつつある地つづきの諸国の社会的推移の様へのつきない興味とから、これ迄その作家が思いもそめなかったような大規模な、つまり世界史的な小説への欲望を刺戟される。そんな人類的な小説がかいてみたい気が動かされる。しかしながら、現実にその作家の描くもの、即ち描けたものはどんな作品かと云えば、池谷信三郎氏の「望郷」から横光利一氏の「郷愁」に至るまで、いずれも例外なくその作家の身辺的な素材に立った作品なのである。
この面白い作家の欲望と現実との間にあるギャップは、一つは日本の近代文学が伝統として来た私小説の性質からの制約、小さな私というものの歴史的な本質からの障害が原因となっているだろうし、他の一つの理由は、小説というものがそれほど作家が生活している社会生活の髄の髄から抽き育って創られてゆくものだという動しがたい事実をも示していると思う。
時代は、日本文学を世界文学の中において考えさせるようになって来ている。そしてその
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