に何と云われようとわが足でふみしめて見なくてはおさまれないのだから、その最中には、はたの観察をいきなりそれを承認した形ではうけとり難いものだろうと思える。
作家と批評家との関係で、作家の側から屡々《しばしば》作家を育てるような批評がない、と文芸評論への軽侮のように表現されるけれども、それはそれだけが作家の心理の現実の全体ではないのではなかろうか。時を経ても、作家というものは自分の作品について心に刻みこまれた評言の切れ端だって忘れてしまうことはないのだから、何につけ彼につけ、その印刻は心のなかで揉まれほぐされ吟味されつづけて、その無言内奥の作業の果、遂に作家が明らかな確信をもって批評を評価しきったとき、はじめてその批評は心のそとに忘られてゆくのだと思う。そのときは、作家にとってその批評から学ぶべきものが十分心に吸収されてしまったか、さもなければその批評を加えたひとの人生態度に迄せまって作家としての批評を加え終ったときか、或は、その批評のくいちがいそのものの間から、批評したひとの全然知らない別の何ものかを、作家がわが芸術の糧としてひき出したかしたときなのである。
ひところ文芸評論の萎靡
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