遠い願い
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)屡々《しばしば》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四〇年十二月〕
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 一人の作家の生涯を、そのひとの一生が終ったあとで回顧するときには、誰しもその作家の生きた時代や、その時代にかかわりあって行ったその人らしい生きかたの姿を、比較的はっきりつかみ出して、観察することも批評することも出来る。
 しかし、作家たちめいめいが生きて仕事をしている真最中で、しかも時代はおそろしく迅速に展開しているようなとき、その相互的な関係の中で行われる作家個人の成長と時代の歴史的な消長との摩擦、融合の過程は恐ろしく複雑で、云ってみれば本人にもその実相が掴みにくいようなことなのではないだろうか。
 はたからは、云いならわされている通りおか目八目で、そのいりこんだ関係の大略が見えている場合もあって、いろいろの観察が下されてもゆく。だけれども、作家当人は、生活も文学も自分の内心で自分を動かす極めて執拗で強情でわき目をふりたがらない何かの力によって推しすすめて行っていて、その道は誰に何と云われようとわが足でふみしめて見なくてはおさまれないのだから、その最中には、はたの観察をいきなりそれを承認した形ではうけとり難いものだろうと思える。
 作家と批評家との関係で、作家の側から屡々《しばしば》作家を育てるような批評がない、と文芸評論への軽侮のように表現されるけれども、それはそれだけが作家の心理の現実の全体ではないのではなかろうか。時を経ても、作家というものは自分の作品について心に刻みこまれた評言の切れ端だって忘れてしまうことはないのだから、何につけ彼につけ、その印刻は心のなかで揉まれほぐされ吟味されつづけて、その無言内奥の作業の果、遂に作家が明らかな確信をもって批評を評価しきったとき、はじめてその批評は心のそとに忘られてゆくのだと思う。そのときは、作家にとってその批評から学ぶべきものが十分心に吸収されてしまったか、さもなければその批評を加えたひとの人生態度に迄せまって作家としての批評を加え終ったときか、或は、その批評のくいちがいそのものの間から、批評したひとの全然知らない別の何ものかを、作家がわが芸術の糧としてひき出したかしたときなのである。
 ひところ文芸評論の萎靡
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