が人々の注目をひいて、文芸雑誌はそのために関心を示した。文芸評論が再び興隆したという意味とはちがう形で、その頃文学の領域には議論が盛だと思う。随分議論だらけである。けれども、作家と時代とのいきさつを、本当に大局からみて、歴史の足どりがその爪先を向けている磁力の方向と、その関連に於て作家一人一人がそれなしに文学は創造もされず存在もしない個々の独自、必然な道をどう見出して行くかということについて、何となし遠く大きい見とおしのあることを感じさせる議論は、割合に多くない。文芸評論にあらわれた変化としてそういう現象そのものが、今日の日本の社会と文学の性格を語っているのであるけれども、日本というものが益々世界的規模で考えられるようになり、日本文学というものが従って拡大された世界文学の動きの中で考えられる時代に来つつあるとすれば、作家の生活感情の具体的な周密沈着な現実への沈潜と、その沈潜において世界史的実感が把握されるように豊富にされてゆかなければならないということは、痛切な希望だと思う。
外国に暫く旅行したり滞在したりした日本の作家は、殆ど例外なく、国にいるとき知らなかった一つの制作的欲望に刺戟された経験をもつだろうと思う。それは、日本を愛するわが故国として初めて地理的にも客観する立場に立ったことのおどろきと新鮮な感動、同時に、身辺に熱い音を立てて流れめぐり諸関係を変化させつつある地つづきの諸国の社会的推移の様へのつきない興味とから、これ迄その作家が思いもそめなかったような大規模な、つまり世界史的な小説への欲望を刺戟される。そんな人類的な小説がかいてみたい気が動かされる。しかしながら、現実にその作家の描くもの、即ち描けたものはどんな作品かと云えば、池谷信三郎氏の「望郷」から横光利一氏の「郷愁」に至るまで、いずれも例外なくその作家の身辺的な素材に立った作品なのである。
この面白い作家の欲望と現実との間にあるギャップは、一つは日本の近代文学が伝統として来た私小説の性質からの制約、小さな私というものの歴史的な本質からの障害が原因となっているだろうし、他の一つの理由は、小説というものがそれほど作家が生活している社会生活の髄の髄から抽き育って創られてゆくものだという動しがたい事実をも示していると思う。
時代は、日本文学を世界文学の中において考えさせるようになって来ている。そしてその
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