ビネーション》は、面白い思いつきと云う以上、何処まで発育し得るものであろう。自分には分らない。とにかく邯鄲は、材料も適したものであったと云えよう。
「犬」は、しんみりと演じ、落着いて見れば、味いのある深い鋭い諧謔を包んだ作品である。こういうものは、すっかり、ステパン、イワンになり切って、自分達が傍から見て可笑しい何を云っているのも気づかず段々熱中して行くところに、自然な人間的な微笑が現れる筈なのだ。日本の所謂喜劇という概念に励まされて、賑やかに騒いだのでは仕方がない。「可笑しみたっぷり」という擽《くすぐ》りは、斯様な世界には禁物と思う。――
 要するに、今月の女優劇は決して成功の部類に属すべきものではないと云っても過言では無かろう。
 見物の心に迫って来る俳優の技術は、只外部から磨をかけられた腕の冴えばかりではない。昔のように「型」できめて行くだけではなく、真個に我々の中の生活を、内部から立体的に描写して行く場合には、先ず、役者が演じようとする世界に対して持っている理解に、批判の眼が向って行く。
「役者」と云う商売人になっただけでは足りない、人間として、凡人以上の感受性と洞察が要求され
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