と姿ばかり。真実に心から溶けた雰囲気がない。
あれ程大勢の男や女を舞台に出したのは、勿論、彼等によって、混雑し、もっとした廃頽的|雰囲気《アトモスフィーア》を感じさせようが為であったろう。その効果は十分あっただろうか。彼等の皆は、舞台の上で自分達の持っている役目を真面目に心に置いて振舞っていたのだろうか。特に、イサベルが激しい熱情で悲惨な身の上話を始めてからの周囲は、自分にとって真個に快いものでなかった。
第一、今の今まで女王だとか、お前のおかげだとか、わいわい騒いでいた者達が、話せ話せと云って身の上話をさせながら、話し手が我と泣き倒れる程血の出るような事実を語っているのに、歎声一つ発しない冷淡さが事実あるだろうか。
自分達が云うだけの科白を云ってしまうと、もうあとは貴方の分だ、お遣りなさい。というように、平気で澄し込んでしまう。心は、些《すこし》も中心人物と共に鼓動していない。当然、見物より先に傾注し、活々とした反応を示すべき周囲が、冷やかに納り込んで、一人舞台の芸を種々な感情で観察でもしているように見えるのはどういうものだろう。切角イサベルが興奮し、熱烈になっても、何処にも其に交響する温い心の連絡が感じられない。従って、彼女の興奮は不自然に孤独で、何処となく無理、「芝居」の淋しさが、見る者の眼に湧上って来るのである。
若し実際の生活の中にある場合なら、到底イサベルは終りまで話し終せる気にはなれなかったろう。
立役《リーディングロール》は一人の背に負わされていても、何かの必要から一旦舞台へ立ったら、仮令《たとい》椅子の足になっても、心をすっぽかしていてはなるまい。綜合的な舞台の芸術を真個に生かすには、只一本無駄な花があってさえ全体の気分《ムード》に関係する。濫《いたずら》な作者の道楽気は反省されなければならないと共に、群集の一人でも、此からの舞台では、仕出し根性を改めなければならないのではあるまいか。
此時ばかりでなく、「恋の信玄」で手負いの侍女が、死にかかりながら、主君の最期を告げに来るのに、傍にいる朋輩が、体を支えてやろうともしないで、行儀よく手を重ねて見ているのも気がついた。何も、わざとらしい動作をするには及ばない。只、そういう非常な場合、人間なら当然人間同士感じ合うに違いない心を、真面目に自分の心に深めればよいので。
律子も、イサベルを熱心に
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