はやっていたに違いない。けれども、緊張や熱が放散的で、内面の厚さが稀薄なように感じたのは何故だろう。
サンピエール寺院に行き、ベルトンを誘惑しようとする場面は、もう少しどうにか美化しても効果が薄くなりはしなかったろうと思う。
掻口説く声が、もっと蠱惑《こわく》的に暖く抑揚に富み――着物を脱いでからの形は、あれほかの思案のつかないものだろうか。
ベルトンが、激しい彼女の誘惑に打勝とうとして苦しむのが、却って見物を失笑させるのは、一つは、イサベルの魅力が見物の心を誘惑するのに余り遠いからではないか。常識では、まあ何と云う風だろう、と呟きながらも、心が自ら眼を誘うような独特な魅惑が、ああいう服装にはあるべき筈だし、又、あらせ得ると思う。
真個の女の人が扮しているのだから、洋服でも、河合武雄の着る洋服ではない型と味いとを見たい。
斯様な印象の後に来たので、「邯鄲」は、随分、お伽噺的な愛らしさで、目に写った。巧くこなしたものだと思う。色彩の調和が、気の利いた「犬」の舞台装置とともに、快く目に遺っている。併し、常磐津、長唄、管絃楽と、能がかりな科白とオペラの合唱のようなものとの混合《コンビネーション》は、面白い思いつきと云う以上、何処まで発育し得るものであろう。自分には分らない。とにかく邯鄲は、材料も適したものであったと云えよう。
「犬」は、しんみりと演じ、落着いて見れば、味いのある深い鋭い諧謔を包んだ作品である。こういうものは、すっかり、ステパン、イワンになり切って、自分達が傍から見て可笑しい何を云っているのも気づかず段々熱中して行くところに、自然な人間的な微笑が現れる筈なのだ。日本の所謂喜劇という概念に励まされて、賑やかに騒いだのでは仕方がない。「可笑しみたっぷり」という擽《くすぐ》りは、斯様な世界には禁物と思う。――
要するに、今月の女優劇は決して成功の部類に属すべきものではないと云っても過言では無かろう。
見物の心に迫って来る俳優の技術は、只外部から磨をかけられた腕の冴えばかりではない。昔のように「型」できめて行くだけではなく、真個に我々の中の生活を、内部から立体的に描写して行く場合には、先ず、役者が演じようとする世界に対して持っている理解に、批判の眼が向って行く。
「役者」と云う商売人になっただけでは足りない、人間として、凡人以上の感受性と洞察が要求され
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング