ための具体的一部としてつかみ、芸術による闘いとして主題を深めていないからである。書く材料をペン先で扱っているからである。もし作者が一小学教師の煩悶、反逆を、野蛮な封建的絶対主義的抑圧と闘う労働者農民の立場に立って把握したならば、当然天使的な無邪気な子供というブルジョア的観念化からも救われ、佐田のイデオロギー的飛躍と実践とは、もっと質実な、納得のゆけるものとして描かれたであろう。現実の日本において、文化反動との闘争の問題は今日広汎に教育労働者を包括してきている。作者が主題をそこまで積極的にプロレタリアの課題とするところまで高めたなら、佐田の実践はよしんばあの形態において書かれたにしろ、その個人的な非組織性――小ブルジョア的なアナーキー性に対し、作者は目的を貫徹するための執拗な周密な行動を、集注し指導し更に一層合目的たらしめる可能を理解するプロレタリアの観点から正しい批判をもって描き得たであろう。
 同じ作者の「樹のない村」は「幼き合唱」の創作態度において感知することのできた作者の「作家」というものについての理解が、作品中にはっきり姿をあらわしている点、特に多くの注意を喚起した。
 農村の
前へ 次へ
全32ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング