にゃならんのです……浅野御存知ですか……遠藤伯なんぞあの人を大分信任のようですな」
 そして、半ば独語のように、
「その縁故で、死んだ津村二郎なんぞ、金を出させたって云う話もあるが……」
 朝子が仕事をしている硝子のインクスタンドの傍にマジョリカまがいの安灰皿があった。それへ磯田は話しながら煙草の灰を落した。
「この間上海から還った浅野慎ってえのが弟でね……面倒だろう、なかなか……」
 話が途切れ、磯田は暫く朝子の手許を見下していたが、
「どれ、じゃあ、どうも失礼致しました」
と立ちなおした。
「そう?……どうも失礼」
 歩きかけた磯田は、
「偉く日がさすね」
 一二歩小戻りして、丁度朝子の髪に照りつけた西日の当る窓のカアテンを下した。
 工場で刷り上げる間、三四十分ずつ手が空く。朝子は、その間に、自分一人いるきりの二階の窓々をあちらこちらへぶらぶらと歩いた。
 一つの窓と遠く向い合う位置に、工場の小窓が開いていた。普通の場末の二階家をそのまま工場に使っていた。穢い羽目の高いところに、三尺に一間の窓、そこには格子も硝子もなくていきなり内部が見えた。窓と云うより、陰気な創口のようであった
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