後もその日の労働を終って帰ろうとする職工、事務員などの群であった。或る交叉点で先の車台がつかえ、朝子の電車も久しい間立往生した。窓から外を眺めたら、甘栗屋があり、丁度その店頭の燈火で、市営自動車停留場の標識が見えた。黒い詰襟服の監督らしい髭のある四十前後の男が、そこに立っていた。何か頻りに見ている。鏡のようだ。よく視たら、彼の手にあるのは女持ちの一つのコムパクトであった。拾ったのだろう。彼は偶然停った満員電車の中から観ている者があろうとは心づこうはずなく、そのコムパクトを珍しそうに、とう見、こう見していたが、やがて蓋をあけ中についている鏡で自分の顔をちょっと見た。それは直ぐやめ、今度はコムパクトの方を鼻に近づけ白粉の匂いを嗅いだ。――トラックや自転車の往き交う周囲の雑踏を忘れた情景であった。
 その位長く彼は嗅いだ。



底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房
   1951(昭和26)年12月発行
初出:「改造」改造社
   192
前へ 次へ
全57ページ中56ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング