でも出さなくちゃならないのじゃ、困っちゃうね」
源さんと呼ばれた男が、気なさそうに、
「ええ」
と返事した。そんなことを、元気に幸子に喋ってきかせた。
朝子の黙り込んだのを、幸子はただ疲れたのだと思ったらしい。長椅子の横一杯に脚をのばし、読んでいる彼女の楽な姿勢を、朝子は凝《じ》っと見ていたが、突然顔と頭を、いやいやでもするように振り上げ、
「ね、ちょっと、私二つに裂けちゃう」
小さい、弱々しい声で訴えた。
「何云ってるのさ」
膝の上へぽたりと雑誌を伏せ、笑いかけたが、朝子の蒼ざめた顔を見ると、幸子は、
「――どうした」
両脚を一時に椅子から下した。
「ああ二つんなっちゃうわよ、裂けちゃう」
朝子は背中を丸め、強い力で幸子の手を掴まえて自分の手と一緒くたにたくしこんで、胸へ押しつけた。
「どうした、え? これ!」
幸子は、駭いて、背中を押えた。
「口を利いて! 口を利いて!」
朝子は、涙をこぼしながら、切れ切れに、
「|暗い瞬間《ダアク・モウメント》!――暗い瞬間!」
と囁いた。
九
転退を欲する本能、一思いに目を瞑《つぶ》って墜落したい狂的な欲望
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