校正を、検べ始めた。
 下手な応募俳句を読み合わせているところへ、ぶらりと磯田が入って来た。
「――大分凌ぎよくなって来ましたなあ、久しくお見えなさらんようでしたが、海辺へでもお出かけでしたか」
「ずっと東京でした……あなたは? いかがです、その後」
「やあ、どうも」
 白チョッキの腹をつき出して、磯田は僅に髪の遺っている後頭部に煙草をもった手を当てた。
「年ですな一つは……一進一退です。然し梅雨頃に比べれば生れ更ったようなもんです、湿気は実に障りますなあ」
 磯田は近年激しい神経痛に悩まされ、駿河台の脳神経専門家の許《もと》で絶えず電気療法を受けていた。朝子などには、慢性神経痛だと云った。実際の病気は決してそんな単純なものではなかりそうなことは、知らぬものないこの男の家庭生活のひどさを思っても推測されるのであった。
 さっきの小娘のことを皮肉に思い合わせ、朝子は、
「もう浅野さんはおやめですか」
と訊いた。浅野というのが駿河台の医者であった。ふっと、老人らしい眼付で窓外の景色を眺めていた磯田は、
「ああ、いやまだです」
と元気な声と共に、眼を朝子に移した。
「実は今日もこれから出かけにゃならんのです……浅野御存知ですか……遠藤伯なんぞあの人を大分信任のようですな」
 そして、半ば独語のように、
「その縁故で、死んだ津村二郎なんぞ、金を出させたって云う話もあるが……」
 朝子が仕事をしている硝子のインクスタンドの傍にマジョリカまがいの安灰皿があった。それへ磯田は話しながら煙草の灰を落した。
「この間上海から還った浅野慎ってえのが弟でね……面倒だろう、なかなか……」
 話が途切れ、磯田は暫く朝子の手許を見下していたが、
「どれ、じゃあ、どうも失礼致しました」
と立ちなおした。
「そう?……どうも失礼」
 歩きかけた磯田は、
「偉く日がさすね」
 一二歩小戻りして、丁度朝子の髪に照りつけた西日の当る窓のカアテンを下した。
 工場で刷り上げる間、三四十分ずつ手が空く。朝子は、その間に、自分一人いるきりの二階の窓々をあちらこちらへぶらぶらと歩いた。
 一つの窓と遠く向い合う位置に、工場の小窓が開いていた。普通の場末の二階家をそのまま工場に使っていた。穢い羽目の高いところに、三尺に一間の窓、そこには格子も硝子もなくていきなり内部が見えた。窓と云うより、陰気な創口のようであった。両側からもたせあった長い活字棚、その中へ、活字を戻している小僧や若い女工の姿も見えた。
 外見既にがたがたで、活字の重さや、人間の労働のために歪み膨らんだ建物の裡は、暗そうであった。女工が、その、こちらに向いて開いた狭い窓際を何かの用で通り過るときだけ、水浅黄の襦袢の衿など朝子の目に入った。朝子はもう余程前、
「いつか工場見せて下さいな」
と嘉造に云った。
「どなたにもお断りしておりますんで――どうも……穢くて仕方ありませんですよ御覧になったって」
 彼は、そう云って、机の上にひろげた新聞の上へ両手をつき、片手をあげて、ぐるりと頭の後を掻いた。
 朝子のいる室を板戸で区切った隣室で、二人の職工がこんなことを云っている声が聞えた。
「――陰気くさいが、柳なんぞ、あれで、陽《よう》のもんだってね」
「そうかねえ」
「昔何とか云う名高い絵描きが幽霊の絵をたのまれたんだとさ。明盲《あきめくら》にしたり、いろいろやるが凄さが足りない。そこで考えたにゃ、物は何でも陰陽のつり合が大切だ。幽霊は陰のものだから陽のものを一つとり合わせて見ようてんで、柳を描いたら、巧いこと行ったんだって」
「ふうむ」
「――死ぬと変りますね、男と女だって、生きてるときは男が陽で女が陰だが、土左衛門ね、ほら、きっと男が下向きで、女は上向きだろう。――陰陽が代って、ああなるんだとさ」
「……じゃあお辞儀なんか何故陰の形するんだろう……」
 工場らしい話題で、朝子は興味をもち、返事を待った。けれども、何故辞儀に陰の形をするのか、職工はうまい説明が見当らなかったらしく、やや暫くして静かに、
「そりゃ私にも解らないねえ」
と云う声がした。

        三

 五時過ぎて朝子は帰途についた。
 日の短くなったことが、はっきり感じられた。印刷所を出たとき、まだ明るかったのに、伝通院で電車を待つ時分にはとっぷり暮れた。角の絵ハガキ屋の前に、やっぱり電車を待っている人群れが逆光で黒く見える、その人々も肌寒そうであった。
 朝子は、夕暮の雰囲気に感染し、必要以上いそぎ足で講道館の坂をのぼった。向うから、自動車が二台来た。それをさけ、電柱の横へ立っている朝子の肩先を指先で軽くたたいた者があった。
 朝子は振りかえった。敏捷に振り向けた顔をそのまま、立っている男を認めると、彼女は白い前歯で下唇をかむように、活気ある笑
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