絹の覆いをかけたり、それをビイズ細工のとかえて見たり、朝子に会うと、
「一度是非聴きにいらっしゃい、全くそこいら辺のガアガアの雑音の入るのとは訳が違うんです――もう二三日すると、京城も入るようにします、朝鮮語ってえものは一寸いいですね」
 嬉しげに話した。実際は、然し決して組立てに成功出来る須田ではなかった。成功しないと材料のせいにして、それが和製なら舶来に代える。舶来なら和製を買い、そんなことの度重なるうちに、彼が代表で保管していた町会の金を私消してしまった。千円近い金であった。彼はこのほかに雑誌の広告代にも費いこみがあった。死ぬ覚悟で、須田は家出をした。然し追手に無事に引戻された。須田と姻戚で、須田の紹介で雑誌部の会計となっていた矢崎は、後々の迷惑を恐れ、事が公になりもしないうち、庶務部長の諸戸へ注進した。須田のために弁護の労をとるより寧ろ自分を庇って、話しようでは示談にでもしてもらえた須田を免職させる方へ働いたのであった。須田の好人物を知っていた同僚は、矢崎の態度を非難した。その非難は、親類の間からもあるらしく、矢崎は近頃、『親類なんてものは五月蠅くていけない』と云い出した。俄に、細君の実家の近くへ家を見付けた話を、朝子も程なく聞いたのであった。
 報知新聞は漢字を制限し、ところどころ、切抜きの中にも、かん布摩さつ、機能こう進、昇コウなどと読み難い綴りがある。朝子は赤インクでそれをなおしながら、
「何時?」と訊いた。
「一時半です」
「磯田、何してるんだろう」
 朝子は、電話口へ、
「嘉造さんに一寸どうぞ」
と印刷所の若主人を呼び出した。彼女のふっくりした、勝気らしい張りのある声が、簾越しに秋風の通る殺風景な室に響いた。
「もしもし、十一時半の約束だのにまだ一台も来ないんですが、どうしたんでしょう、え? ああそう。でももう二十三日ですよ。三十分ばかりしたらそちらへ行きますから、じゃ直ぐ出るようにしといて下さい、どうぞ」

        二

 鶴巻町で電車を降り、魚屋の角を曲ると、磯田印刷所へは半町ばかりであった。魚屋の看板に色の剥げた大鯛が一匹と、同じように古ぼけた笹が添えて描かれている。そのように貧しげなごたごたした家並にそこばかり大きい硝子戸を挾まれて、磯田印刷所がある。震災で、神田からここへ移って来たのだった。
「どうも只今は失礼いたしました。もう二台ばかりあがりましたから……どうぞ」
 金庫を背にした正面の机の前から、嘉造が、入って来る朝子に挨拶した。朝子と同じ年であったが、商売にかけると、二十七とは思えない腕があった。
「おい、工場へ行っといで」
「――二階――よござんすか」
 濃い髪が一文字に生えた額際に特徴ある頭を嘉造は、
「どうぞ」
と云う代りに黙って下げた。
 自分の腕に自信があって、全然情に絆《ほだ》されることなく使用人を使うし、算盤を弾くし、食えない生れつきは商売を始めた親父より強そうな嘉造を見ると、朝子はいつも一種の興味と反感とを同時に覚えた。朝子は、団栗眼《どんぐりまなこ》の十二三の給仕が揃えてくれた草履に換え、右手の壁について階段を登った。
 階段は、粗末な洋館らしく急で浅い。朝子の長い膝が上の段につかえて登り難いこと夥しかった。片手に袱紗包をかかえ、左手を壁につっ張るようにし、朝子は注意深く一段一段登って行った。三分の二ほど登ると社長室の葭戸《よしど》が見えた。葭戸を透して外光が階段にもさして足許が大分明るくなった。
 何の気もなく、朝子はバタバタと草履を鳴らし若い女らしく二三段足速に登った。
 その途端に、さっと葭戸が開き、室内から十七ばかりの給仕女が、とび出したとしか云えない急激な動作で踊り場の上へ出た。その娘は素早く朝子をかわして、ドタドタドタ、階下へ駈け降りた。
 朝子が思わずもう誰も見えない暗い階段の下の方を見送っていると、あから顔の社長は、葭戸と平行に、書棚でも嵌め込む積りか壁に六尺に二尺程窪みがついている、その窪みの処から、悠《ゆ》っくりさり気なく室の中央へ向って歩き出した。
 朝子は何となし厭な心持がした。
 二階で親父が若い給仕娘をその室から走り出させたりしているのを、嘉造は知っているのだろうか。朝子は二重に厭な心持がして、社長室のリノリウムを踏んだ。
 建坪の工合で、校正室は、社長室を抜けてでないと行けなかった。朝子は、黙って軽く頭を下げ、通りすぎた。磯田は、机のこちら側に立って、煙草に火をつけかけていた。彼は、下まぶたに大きな汚点《しみ》のある袋のついた眼を細め、マッチを持ち添えスパスパ火をよびながら、
「や」
と曖昧に声をかけた。
 校正室では備えつけの筆がすっかり痛んでいる。
 朝子はベルを鳴らして新しいのを貰い、工場から持ってきたばかりで、インクがまだ湿っぽい
前へ 次へ
全15ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング