顔を見せた。
「――なかなか足が速いんだな。電車を降りると、後姿がどうもそうらしいから、追い越してやろうと思ったけれど、とうとう駄目だった」
「電車が一つ違っちゃ無理だわ」
朝子は大平と並んで、先刻よりやや悠っくり、坂を登り切った。
「どこです? 今日は――河田町?」
河田町に、兄が家督を継いで、朝子の生家があるのであった。
「いいえ……印刷屋」
「なるほど、二十三日だな、もう。すみましたか?」
「もう少し残ってるの、てきぱきしてくれないから閉口よ。でも、まあすんだも同然」
「一月ずつ繰り越して暮すようなもんだな、あなたなんぞは……」
彼等は、大通りから、右へ一条細道のある角で、どっちからともなく立ち止った。
「どうなさるの」
大平は、その通りをずっと墓地を抜けた処に、年とった雇女と暮しているのであった。
「幸子女史はどうなんです、家ですか」
「家よ、きっと」
「ちょっと敬意を表して行くか」
向いは桃畑で、街燈の光が剪定棚の竹や、下の土を森《しん》と照し出している。同じような生垣の小体《こてい》な門が二つ並んでいる右の方を、朝子は開けた。高く鈴の音がした。磨硝子の格子の中でそれと同時にぱっと電燈がついた。
「かえって来たらしいよ」
女中に云う幸子の声がした。
上り口へ出て来た幸子は大平を見て、
「ほう、一緒?」
と云った。大平は帽子の縁へ軽く手をかけた。
「相変らず元気だな」
「悄気《しょげ》るわけもないもん」
「はっはっは」
大平は、神経質らしい顔つきに似ず、闊達に笑った。
「いやに理詰めだね」
朝子は、赤インクでよごれた手が気持わるいので、先に内に入った。
「上らないの?」
「ちょっと尊顔を拝するだけのつもりだったんだが……」
「お上んなさい。――どうせ夕飯これからなんでしょう」
問答が朝子の手を洗っている小さい簀子《すのこ》の処まで聞え、遂に大平が靴を脱ぎ、入って来た。タオルで手を拭き拭き、朝子は縁側に立って、
「いやに世話をやかすのね」と笑った。
「本当さ。昔からの癖で一生なおらないと見える」
大平は、幸子と向い合わせに長火鉢のところへ腰を下しながら、
「まあ、お互に手に負えない従兄妹を持ったと諦めるんだね」と云った。
「――然し、実のところ、これから遙々帰って、お婆さんとさし向いで飯を食うのかと思うと足も渋る」
わざとぞんざいに、然し暖く叱るように幸子が云った。
「だから、早く奥さんをみつけなさいって云うんだのに」
大平はそれに答えず、幸子が心理学を教えている女子大学の噂など始めた。二年ばかり前、彼の妻は彼の許を去った。初めの愛人が、今は彼女と暮している模様だ。大平は三十六であった。
食後、三人はぴょんぴょんをして遊んだ。初め、大平はその遊びを知らず、二枚折の盤の上の文字を、
「何? ピヨン? ピヨン?」
と読んだ。
「ぴょん、ぴょんよ」
と朝子に云われた。
幸子が簡単にルールを説明すると、
「そんならダイアモンドじゃあないか」と云い出した。
「それなら、やったことがある。対手の境界線の上まで行っていいんだ」
「これは違うのさ、一本手前までしか行っちゃいけないの」
「一番奥のが出切るまで陣へ入っちゃいけないって云うんだろう? だから、きっと行けるんだ」
「頑固だなあ」
幸子が、じれったそうに、力を入れて宣告した。
「これは違うんだってば」
勝負の間、彼等は、朝子が二人に何をしても平気の癖に、大平が幸子の駒を飛びすぎたり、幸子が彼の計画を打ち壊したりすると、
「こいつめ」
「生意気なことをするな、さ、どうだ」
「ほら、朝っぺ! うまいぞうまいぞ」
などというそれ等の言葉は、本気とも冗談ともとれた。
「なんて負けず嫌いなの。二人とも?」
「ああ、女の執念ですからね」
大平が、行き悩んで駒で盤の上を叩きながら云った。
「対手にとって不足はないが、と。……どうも詰っちゃったな。朝子さん、何とかなりますまいかね」
「相互扶助を忘れた結果だから、さあそうして当分もがもがしていらっしゃい」
この桃畑の家を見つけたのは大平であった。幸子はそれまで小日向《こびなた》の方にいた。朝子は一年半程前に夫を失い、河田町の生家に暮していた。幸子と二人で家を持つと決ったとき、大平は、
「よし……家探しは僕が引受けてあげましょう。どうせ学校のまわりだろう? そんならお手のもんだ」
と云った。
「隣りへ空いたなんて云って来たって行きませんよ、五月蠅くてしようがありゃしない」
すると、まだ四五遍しか会っていなかった朝子を顧み、大平は、敏感な顔面筋肉の間から、濃やかな艶のある、右と左と少しちんばなような、印象的な眼で笑いかけた。
「念を押すところが未だしも愛すべきですね。『姦《かしま》し』に一つ足りないなんてもの、
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