然しそれはどうにもなることであった。暫く考えた後、朝子は、
「私、行く」
と、椅子から立ち上った。
「今独りんなると碌なことをしないにきまってる。いやだわ」
幸子には、いい意味でぼんやりなところがあり、朝子の動揺している心持を知っていても、実感としては、わからないらしかった。彼女は、
「いなさい、いなさい」
いかにも年長らしくきめつけた。
「そんなこって、どうするのさ」
それから間に合う汽車は九時十五分であった。幸子は手鞄に遽しく手廻りものをつめながらまた云った。
「第一、私の旅費さえかつかつなんだもの」
銀座で見舞物を買ったりしているうちに、朝子は、変な不安から段々自由な心持になった。
幸子のいないのもよい。自分の前後左右を通りすがる夥しい群集を眺めながら、朝子は思った。自分も苦しいなら苦しいまんま、この群集の一人となって生きればよいのだ。どんなに苦しくても、間違っても、人間の裡にあればこそだ。
ところどころの飾窓の夜の鏡に、ちらりと、自分の歩いている姿が映った。その自分を、内心で刺している苦しさや、一瞬同じ灯に照らされ鏡にうつる様々な顔、ネクタイの色などに、朝子は暖い感情を抱いた。
外国へ出発する名士でもあると見え、一等寝台の前で、熾《さかん》にマグネシウムの音がした。幸子の乗った車室の前のプラットフォームには、朝子の他四五人の男女がいるだけであった。窓から半身外へのり出し、幸子が訊いた。
「大丈夫?」
朝子は、頬笑んで合点した。
「本当に?」
「本当に。――大丈夫でなくたって、大丈夫と思っちゃった」
「何のことさ、え? 何のこと?」
「いいのよ、安心して」
「着いたら電報打つけど、若し何かあったら」
何心なく云いかけ、驚いて止めた拍子に、幸子は赤い顔をし、口に当てた掌のかげで舌を出した。朝子は、
「莫迦《ばか》ね」
薄笑いしたが、段々おかしく自分もしまいに声を出して笑った。幸子は習慣的に、大平に頼めと云いかけたのであった。
列車が動き出す、万歳《ばんざ》ァーイという声がプラットフォームの二箇所ばかりで起った。
カーブにつれて列車が蜒《うね》り、幸子の振る手が見えなくなってから、朝子は歩き出した。すると、人ごみの中から、
「――しばらく」
太いフェルト草履の鼻緒をそろえて、挨拶した者があった。
「まあ――」
朝子と、同級の中では親しい
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