でも出さなくちゃならないのじゃ、困っちゃうね」
源さんと呼ばれた男が、気なさそうに、
「ええ」
と返事した。そんなことを、元気に幸子に喋ってきかせた。
朝子の黙り込んだのを、幸子はただ疲れたのだと思ったらしい。長椅子の横一杯に脚をのばし、読んでいる彼女の楽な姿勢を、朝子は凝《じ》っと見ていたが、突然顔と頭を、いやいやでもするように振り上げ、
「ね、ちょっと、私二つに裂けちゃう」
小さい、弱々しい声で訴えた。
「何云ってるのさ」
膝の上へぽたりと雑誌を伏せ、笑いかけたが、朝子の蒼ざめた顔を見ると、幸子は、
「――どうした」
両脚を一時に椅子から下した。
「ああ二つんなっちゃうわよ、裂けちゃう」
朝子は背中を丸め、強い力で幸子の手を掴まえて自分の手と一緒くたにたくしこんで、胸へ押しつけた。
「どうした、え? これ!」
幸子は、駭いて、背中を押えた。
「口を利いて! 口を利いて!」
朝子は、涙をこぼしながら、切れ切れに、
「|暗い瞬間《ダアク・モウメント》!――暗い瞬間!」
と囁いた。
九
転退を欲する本能、一思いに目を瞑《つぶ》って墜落したい狂的な欲望、そういうものだけが、やがて朝子の心の中に残った。それ等の欲望が跳梁するとき、常に仲介者として、大平の存在が、朝子の念頭から離れぬ。朝子は、自分に信頼出来ない心持の頂上で、その日その日を送った。生活はほんの薄い表皮だけ固まりかけの、熱い熔岩の上に立ってでもいるように、あぶなかった。
幸子の姉で、山口県へ嫁入っている人があった。
春、葡萄状鬼胎の手術を受けてから、ずっとよくなかった。最近容体の面白くない話があったところへ、或る日、幸子の留守、電報が来た。幸子が帰って、それを見たのは四時頃であった。
「こりゃ行かなくちゃならない」
「勿論だわ」
「旅行案内、私んところになかったかしら」
朝子は、今独りにされることは恐しくなって来た。
幸子が帰って来る迄に、自分は今の自分でなくなってしまっている。――そんな予感がした。
朝子は、
「私も行っちゃおうかしら」
と云った。
「一緒に?」
「うん」
「そりゃ来たっていいけど……」
幸子は、旅行案内から眼をあげ、
「駄々っ児だな。まだ雑誌も出ないじゃないの」
と苦笑した。
「駄目だ、仕事を放っちゃいけない」
校正がまだ終っていなかった。
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