と云うことだね」
 朝子は、不安げな、熱心な面持で大平に合点した。
「だからね、私だって、ただ月給九十円貰って、あてがわれた雑誌の編輯が出来るだけじゃ、生きてもいないんだし、職業も持ってるんじゃないのよ――どんな雑誌を何故編輯するのか、そこまではっきりした意志が働いて、やっと人間の職業と云えるんだろうけれど……」
 大平が、例の目から一種鋭い、朝子を嘲弄するのか自分を嘲笑うのか分らない強い光を射出しながら呟いた。
「――朝子さんのお説によると、じゃあ、我々会社員の仕事なんていうものは、要するに月給を引き出す石臼廻しみたいなもんかな」
 彼の微かな皮肉を正直に受け、朝子は非常に単純に、
「そうかも知れないのよ」
と答えた。
 やがて、朝子は生来のぴちぴちした表情をとり戻して、云った。
「私、何、働いて食っているぞって、実はちょっと得意でなくもなかったんだけれど、どうも怪しくなって来たわ、この頃。今に私が本当に自分の雑誌創ったら、大平さん読者になって頂戴」
 これは実際問題として、朝子の心に育ちかけていることなのであった。
 幸子は机に向って、明日の講義の準備をしていた。こちらで、大平は朝子と低声《こごえ》で話していた。朝子は、編物を手にもっていた。
「だれの?」
「甥の――わるくないでしょ? この色――」
「いつか往来で会った坊ちゃんですか」
「ああ、お会いになったことがあるのね」
 幸子が、それを小耳に挾んで机に向ったまま、
「だれに会ったって?」
と大きな声で云った。
「健ちゃん」
 暫く幸子のペンの音と、竹の編棒の触れ合う音ばかりが夜の室内を占めた。そのうるおいある静けさが、彼の心にしみ入ったという風に、大平がうつむいている朝子の髪の辺を見ながら呟いた。
「丁度こんなときもあったんだろうなあ」
 朝子が、死んだ夫と暮していた生活の中に、今夜のような家庭的な情景もあったであろうという意味を、朝子は感じた。彼女は淡い悲しみを感じ、黙った。同時に大平の心の内にも、それにつけて自ら思い出される何事もその妻との間にないと、どうして云えよう。そう、朝子は思った。彼女はこれまでも、大平の去った妻については、自分の趣味と遠慮から進んで一言も触れなかった。今も、朝子は黙ったまま、小さいスウエタアの一段を編み終った。片手で、畳に落ちている毛糸玉から、更に糸のゆとりを膝の上へたぐりあ
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