げ、向きをかえて編みつづけようと、朝子が椅子の上で、少し胸を伸ばした。そのはずみを捕えたように、
「あなたは変ってるね」
大平が云った。
「あなた、本当にまた細君になる気持はないんですか」
「あなたはいかが?」
「ふーむ」
大平はうなって、然しはっきり云った。
「ないな」
よほど間を置いて、
「それが、だが自然なんだろうな、一方から云えば」
大平は椅子の腕木に片肘をつき、その上へ頬杖をついていた姿勢を改めて、腕組みをした。彼はそのままやや久しく沈吟していたが、急のその顔を朝子の方へ向け、
「まさか発菩提心という訳じゃありますまいね」
「そんなことありゃしないわ。ただ……」
「なに?」
「……私の心持ん中で、もう結婚生活、すっかり完結《コムプリート》した気がするのよ。また、同じことを別にして見たいと思わないだけ」
彼等は、幸子の邪魔にならないように、初めっから小声で話していたが、このとき、朝子は異様な閃光が、大平と自分との低い、切れ切れな会話の内に生じているのを感じた。変に心を貫通する苦しい心持で、彼女は身動き出来なかった。大平は、一層低い声で、正面を見据えたまま、やっと聞える位に云った。
「――変りもん同士で、面白くやってゆけると思うんだがな……自由に……」
――朝子の編棒は、同じように動いている。彼女は黙っている。大平も黙ってしまった。突然、幸子が机から、
「えらく静かだな」
と云った。
「何してるの」
「うむ……」
「さあ、もう一息ですみますよ」
気を入れなおし、机にこごみかかった幸子の背なかつきを見て、朝子は愕然として気になった。彼女は、幸子がそこにいるのを知りながら忘れていた瞬間の長さ、深さが、幸子に声をかけられ、初めて朝子の意識にのぼったのであった。非常に幸子と無関係などこへかへ心が去っているようで、そのままでは、ふだんの位置に置いて幸子を認識するのにさえ困難を覚える。そんな気持だった。
この覚醒は、実に我ながらの愕《おどろ》きで朝子を打ち、彼女は、今幸子に振りかえられては堪らない心持になった。彼女は、ぼんやり燃えるような顔をして、部屋を出てしまった。
「おや、いなかったの!」
幸子の意外そうな声が、こちらの室で鏡の前に佇んでいた朝子のところまで聞えた。
八
翌日、朝子は編輯所へ出かけて行った。
事務をとっている間
前へ
次へ
全29ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング