まあこちらから願い下げだ」
 或る二月の午後、幸子から電話がかかり、朝子も出かけ、この家を見た。雪降り挙句で、日向の往来は泥濘だが、煉瓦塀の下の溝などにまだ掻きよせた雪があった。そんな往来を足駄でひろって行くと、角の土管屋の砂利の堆積の上に、黒い厚い外套を着、焦茶色の天鵞絨《ヴェルヴェット》帽をかぶった大平が立って待っていた。
「この横丁が霜解けがひどそうで御難だが、悪くないでしょう? こちら側が果樹園なのは気が利いている」
 溶け残った雪が、薄すり果樹園一面に残っていて、日光に細かくチカチカ輝いていた。青空から、快晴な雪解の日につきものの風が渡って、杉の生垣を吹き、朝子のショウルの端をひるがえした――。
 これは、一年余り前のことだ。

        四

 続いて二日、秋雨が降った。
 夜は、雨の中で虫が鳴いた。草の根をひたす水のつめたさが、寝ている朝子の心にも感じられた。
 晴れると、一しお秋が冴えた。そういう一日、朝子は荻窪に住んでいる藤堂を訪ねた。雑誌へ随筆の原稿を頼むためであった。
 ひろやかに庭がとってあって芝が生え、垣根よりに、紫苑、鶏頭、百日草、萩、薄などどっさり植っていた。百日草と鶏頭とがやたらに多く、朝子は目の先に濃厚な絨毯を押しつけられたように感じた。
 四十四五の顔色の悪い藤堂は細君に「もっと濃く」と茶を代えさせながら、
「――秋になったが、どうも工合わるくて閉口しています」
と云った。
「数年来不眠症でしてね、こうやって家族と遮断したところで寝ても眠れない。癪にさわって暁方にジアールを二粒位飲んでやるんです。ところが、朝出かけなけりゃならないときなんか薬が残っていると見えましてね、この間も省線で、この次は目白だ、と気を張っていても夢中んなっちゃって乗り越す。はっと思ってまた戻るが、今度は戻りすぎて、一つ処を二三度行ったり来たりしました」
 細君が、
「――本当に滅茶苦茶を致しますんですからねえ」
 そして藤堂の顔に目を据えて云った。
「きっと今にどうかなっちゃうから、見ていらっしゃい」
 藤堂は暫く黙っていたが、しんねり、
「こいつもヒステリーです」
と云った。
 帰ろうとしていると、細君が、
「ああ白杉さん、お宅に、犬お飼いですか」
と訊いた。
「いいえ、飼おうと云ってはおりますんですけれど」
「あなた、じゃ丁度よござんすよ」
 藤堂
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