にでもなられたら、死んだ親父にも申訳ないと思いますし。――けれどもなまじっか人並以上の暮しをしていた悲しさで今更他人の台所を這いずる気にもなれず……」
「……そういうんでは、あなたが今云った朝鮮行きもどんなものかな……一つ大決心がいるね」
一太に会話の大部分は不得要領であった。一太は、ただ漠然いつ朝鮮へ行くのだろうと思った。この頃一太の母はこうして訪ねた先々で朝鮮行きのことを話した。一太にも話した。母親は一太をつかまえて大人に相談するように、
「ねえ一ちゃん。いっそ朝鮮のおじさんとこへでも行くかねえ。こういいめがふかなくちゃあやりきれないもん……ねえ」
と談合した。一太はそのとき勇み立って、
「ああ行こうよ、行こうよおっかちゃん」
と云ったが……一太は、頭を傾げ脚をふりふり、
「どんなところだろうね朝鮮て! おっかちゃん」
と訊いた。男の人は少し笑顔になった。
「木浦だったね、さっきの話のところは。――木浦なんぞは入口だから、大して内地とは違うまい」
一太はうっかりした風で窓から外を見ていたが珍しがって急に大声を出した。
「ここんち竹藪があるんだねえ、おっかちゃん、御覧ほら、向うにもあるよ。この辺竹藪が多いんだね」
「ああ」
一太は眼をキラキラさせて訊いた。
「あんな竹藪、虎が出るだろうか」
「ハッハッハッ、ここへ虎が出ちゃ大変だ」
「じゃ朝鮮にいるだろうか」
「君が行く方にはいないよ、いるのは豚だけだ」
「豚? じゃ清正が退治したってのは本当は豚かい?」
「これ! 何です、豚かいなんて」
「ハハハハ。構わん構わん……清正が退治したのは本物の虎さ。だが虎は朝鮮でもずっと北へ行かないじゃいまいよ」
「ふーん」
暫くまた二人の話をきいていたが、一太は行儀よくしていることに馴れないから、籠に入れられた犬のように節々がみしみしして来た。一太は「アアー」と欠伸をしながら延びをした。
「何ですね一ちゃんは! あなたも一緒にちゃんとお願いするもんです。いくつになっても苦労ばかりかけて……」
「退屈な方が尤《もっと》もさ。――外へ出て見て御覧、栗がなってるかも知れないよ」
一太は玄関を出て、大きなポプラの樹のところを台所の方へ廻って見た。直ぐ隣りが見え、そこの庭にはダリアが一杯咲いている。一太が下駄を引ずって歩くと、その辺一面散っているポプラの枯葉がカサカサ鳴った。一太は
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