そして、今の有様の体を少しでも楽にさせるために、ぴったり背中を地面につけて、死んだ魚の様な形をとったのである。
 彼は激動の後の静かな心持で、もう恐らくは死ぬまで会う事の出来ないだろう、今飛び去った雌鴨の事を思い出して居た。
 此の、ほんの一寸の前までの、彼の幸福彼のよろこびが、今斯うやって命まで投げ出して醜い姿になって居る自分の物だったのだと云う事は、自分ながら信じられない事である。
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「ああ俺は幸福だった。
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 彼は溜息を吐いた。
 そして、彼那に愛しながら、此の唐突な別れをした今になっては、余り明かに浮んで来ない雌鴨のあの小さかった頭、眼、細かった頸を思い出して居たのである。
 其の薫わしい、若々しい追想は、少なからず彼の心を柔らげた。
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「ああ、俺は運が好かったのだ。
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 さっきまで、彼の様に自分に深い恵みを垂れて居た神様は、此れから先も、決して自分には辛くばかりは御あたりなさるまいと云う事を、段々彼は感じ始めた。彼の可愛い雌鴨も、自分が又幸福な日に会うまでは、生きてどこかに自分を
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