覚えて居るだろうと云う事は、空だのみではない様に思えたのである。
 彼はもういくらもがいても無駄な事であるのを知って居る。
 駄目だと知りつつ苦しさをいよいよつのらせるほかしない身もがきをするでもない。
 彼は、右の片足をしっかり捕えて居る繩の条《す》じ目を、ぼんやり痛く感じながら、静かに目を瞑って仰向きになって居るのである。
 斯うして居るうちに、夜は百年昔と同じに、彼の幸福であったきのうの朝が明けた通りに、段々明るんで来た。
 四辺の万物は体の薄黒色から次第次第に各々の色を取りもどして来、山の端があかるみ、人家の間から鶏共が勢よく「時」を作る。
 向うの向うの山彦が、かすかに「コケコッコ――ッ」と応える。
 目覚め、力づけられて活き出そうとする天地の中に、雄鴨は、昨日の夜中と同様に、音なしく仰向き卵色の水掻きをしぼませ、目を瞑って、繩に喰いつかれて居るのである。
 彼の薄い瞼一重の上に、太陽は益々育ち始めた。



底本:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年12月25日初版
   1986(昭和61)年3月20日第5刷
初出:「宮本百合子全集 第
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