ばかりだ。東の南の背の高い、よく雀が来てとまるひば、一杯の引かぶった松、あすなろう。八つ手、沈丁、梅、花のさかないかれた梅、*中、つやのない葉を隣りの家の西日のさすはめにうつして居るバラ。
 先に住んで居た人の置いて行った箱庭にさえ、小さなつげとつつじが、黒い、緑のよごれた毛糸のたまのようにくっついて居る。
 私は、秋になると葉をおとす紅葉やポプラーや、鈴かけのようなものが欲しい。
 冬、細そりした裸の枝は美しい。夏の空想の美くしさ。

     十二月三十日(一九二三)

 佐藤春夫氏の都会の憂鬱に、
「しかし何時如何なる場合にも、『父と子』とは『父と子』であることを忘れてはならない」
と云う一句がある。
 これは、本当の言葉だ。誰でも、文学に志して其を感じないものはないだろう。
 先日、私が林町に行った時、(九月一日の震災後で、佐野利器氏や何かが復興院の顧問になったこと等が新聞にも出る時であった。)母が突然
「百合ちゃんもタイトルでもとるといいね。」と云われた。
 自分は寧ろ驚き、同時にひどく不快を感じて
「何故? 学者と芸術家とは異うことよ。芸術家は学者以上と云えてよ一方から見る
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