自分のうそ(誇張)

 十二月十四日、
 石橋さんが来たので林町に行きとまり、翌日午後かえる。A前日から風邪のきみ。かえって見ると床について居る。
「いろいろ話し、石橋さんが、
『貴女可愛がられて居ますね』と云ってよ。何故ってきいたら、
『女の人は大抵結婚すると、此処に皺が出来るでしょう』(目尻をさし乍ら)って、そして、『ふふうむ』と云って見て居るの」
と云った。
 肥ったこと、その他は話したが、実際に於て此那会話はなかった。
 私の想像が働きすぎ、アユ的ウソと云うに近いものとなった。
 Aに媚びようとしたのではないのに。――
 原因は、(イ)[#(イ)は縦中横]Aに床につかれて居るいやさ、down hearted だと思ったこと、
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(ロ)[#「(ロ)」は縦中横]実際うちにかえって愉快だったこと。
(ハ)[#「(ハ)」は縦中横]思いがけずとまって気の毒だったこと――自分はこの頃、女中とだけ居る淋しさつまらなさを理解出来るから、
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 それ等が、刺戟となって口に出たのだ。考えて見、自分でおどろく。少し悲し、少し面白し、悲しい方がつよい。imagination の abundance から来るという考え方もあるが、出鱈目で所謂暗示にかかり易い弱い性格を示す。その弱さの自覚される clear head が又自分にある。

     人格の真の力

 そのような(前に書いてある)ことを自分がわかる快心の心持だけで終ることは、結局、there is somethings ということが発見された丈である。発見! それについて自分はどう云う decision を下すかと云うところ迄ゆき、現在の心とその decide されたものとの間にダイナミックな折衝を生じなければ、真実人格を養う力とはならない。あるもののあるのを知るだけでは足りない。知ったそれに自分はどう向うか、その理想に叶うどれ丈の実力を持って居るか、そのしみじみとした反省が大切なのだ。
 坪内先生の「実行に急ぎすぎる」と云う言葉を何かに向って云われたのは、先生の作品にさえあてはまる意味深い言葉だ。
 近頃、自分の内的生活を、次に次にと新たなものを受け入れる為、一つ一つをたんねんにギンミし、それに一つ一つの decision を与えて居ない傾向がある。只感じるだけ。そこ
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