て居る。
どんな女の人と置いても大丈夫と云うのは、彼が、それを清らかに愉しみつき合い乍ら、なお堕しないと云うのではなく、女の前に出ると、先方が active でない限り、自分はコチンとして居るのを私がよく知って居るからだ。
彼は私に対して、どう思う?
あぶないとは思うらしい。欲情を私の側に認めず、男が独りの私に対して持つ欲情というものを随分思うらしい。自分の淋しさもあるだろう。私が彼を一人で出してやるより、彼が私を一人で出す方をいやがる。
自分の子供というものについての心持
自分が子供というものについて考えるのは、自分がそれを持つのを恐れるのは、自分やAが安心して親となれる人間でないという外に、林町の母達の心持にかなり影響を受けても居ると思う。母が向島の祖母と子供のことについて激しい感情を持ったのもよくわかる。
十二月九日
Jane Eyre をよみつつ。
大瀧のひろ子、基、倉知の子のことを思いあわれになり、国男、スエ子、英男、自分が母を生みの母を持つことの幸福をしみじみと思った。家計が立てば、子には父より母だ。ひろ子の実際的な、感情の流露しない大人びたところを思うとあわれ。又、倉知の子が、休の日に家に居ず活動をあさるのもあわれ。
頼られる人
Jane Eyre をよみつつ。
p. 144 に Rochester が opera−singer にだまされたときの話を Eyre に話しつつ。「不思議だ。私がこんなことを信用して打ちあける人に貴女を選ぼうなどというのは全く不思議だ。(――)が、私は、どういう心持の人と相対して居るか知って居る。特殊な、ユニックな心持だ。幸、私はそれを傷ける意志はないが、よしあったとしても、私などに傷けられるような心ではないだろう。」
“I know it is one not liable to take infection”
とある。
頼られる人というのは、こう云うのだ、と思う。理解はあるが、地につき Matter of Fact な、自分の生活を支配されない人が、動揺し、まどい、当を求める者にたよられる。
赤江米子氏/母の或部分[#「赤江米子氏」と「母の或部分」は2列に並ぶ]のような性格
はっきり自分の行く道 moral の定って居る人が、たよられるのだろう。面白し。
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