夜の病院を書いたのがあった。それ等を切々に考え乍ら呻り声をきく、自分は猶ミカンの汁と鉱泉とをちゃんぽんにのんだ。
二日目の夜、やはり午前一時近く目をさました。同室患者の寝息――時計の音――廊下の天井をてらすぼんやりした明るさ――十数年前の夏東京の大学病院小児科の隔離室に暮したことがあった。英男が三つで疫痢を病って入院して居た。自分は十二位だった。母と病室に泊った。深夜氷嚢をかえに行くのが自分の役であった。
廊下は長かった。夏の夜に電燈があつくるしく赤っぽかった。その下をずっと自分の踵からあまる草履の音だけをきいて通り、右側の薄暗い室に入る。つめたい空気が顔をうった。三和土《たたき》の段を三つ下り、三和土の床を歩いて三和土の湯槽のように大きなものの中に氷がおがくずに埋ってあった。三和土の床も、三和土の湯槽のようなものも、みんな湿って居た。ぬれて電燈を小さくてりかえした。私は一面の夜と、無人な空気と、湿りを巨大に厳粛に自分の小さい存在の周囲に感じた。
私はひとりでにいそぐ。いそいで氷を破り、氷を破る音が濡れた三和土の床や天井に大きく反響して廊下へ響くのをきく。この静止のなかに動くのは自分だけだというのは異様な感じであった。……――この時廊下をいそいで歩く二三人の跫音がした。緊張し 眠気のさめた跫音だ。自分はおや誰か死んだなと思った。
翌朝同室患者のファイエルマンが彼女の一日分五十|瓦《グラム》のパンの端から一切をきり乍ら
――あなた我々の隣の病人の呻るのをききましたか
と云った。
――一昨夜の晩は聴えた。でも昨夜は呻らなかったようです
――一昨日は僧侶がよばれたんですよ
最後の塗油式に呼んだということであろう。
――そんなにわるいの
――ふうむ、そして昨夜死にました
あの跫音はそれであったか。変な心持がした。
彼女は
――ここはまだよい。重い病人は一人の室へ入れられるから
と云った。
――目の前に散々苦しんで死んだ人間が寝て居て御覧なさい、随分いやな気持だ
五年糖尿病を病って六度あっちこっちの病院へ入って歩いて居るうちに、そういう経験もしたらしい。
○内科婦人患者だけ二十七人居る。一室十二人詰のところ一ヵ月四十五円。
二人室 百五十留
一人 二百五十留
ロシアの病院の特徴は、看護婦がわりに 乳母《ニャーニカ》というものがあってそれが一切直接身の
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