在でしかありません。今日の世界歴史の段階は、日本の作家に少くとも性的表現以外に人間性を主張し行為し描出する可能を与えています。私たちこの精緻な人間が、性器に還元された自我しか自覚する能力がないとしたら、それは病的です。性的交渉にたいして精神の燃焼を知覚しえない男・女のいきさつのなかに、この雄大な二十世紀の実質を要約してしまうことは理性にとって堪えがたい不具です。文学の世界、芸術の世界では、どうして、こういう人間性の崩壊が、あやしまれず、かえって文学的だとして存在するのでしょうか。それらがとりあげられず、その悲傷において、その克服への熱望においてそのものとして肯定を強要して存在するのでしょうか。
 久しい間沈黙していた豊島与志雄がこのごろ「塩花」などをはじめ、若い女性を主人公とするいくつもの作品を発表しています。初期からシンボリックな作品を作っていた豊島氏のこれらの作品をよむと、作者は、この人生に私たちが求めるおのずからなる清らかさ、すがすがしさ、偽りのなさを、若い女性の自然発生の感情を描写することで表徴しようとしているようにも思えます。しかし、私たちの心のたえることのない欲求である社会
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