なく捕えられたのだそうだ。二十一歳の労働者出の革命的な青年である。岨と看守との押し問答がだんだん嵩じて来て、六十日間にすっかり頭髪の伸びてしまった岨は、腹立たしそうに、
「なんだ! それで君の任務がすむと思ってるのか!」
といった。
 頬骨の出た看守の顔が紅くなった。
「おい!」
 呻るようにいうと看守の相恰が変った。
「こっちへ出て来い」
「出ないだっていい!」
「でえろ[#「でえろ」に傍点]というのに」
 ガチャンと監房の戸をあけた。たちまち、取組み合って、くんずほぐれつする凄じい物音が監房内部で起った。
「旦那! ね、旦那! 若いんだから勘弁してやって下さい。ね、旦那!」
 ひどい音がしたと思うと、どっちかが監房から仰向きに転り出して留置場入口の戸にぶつかり、弾《はじ》きかえった。留置場は声こそ出さないが総立ちである。コツ、コツ。入口の戸を叩いて、休み番の看守が入って来た。ただならぬ物音をききつけてきたのだ。が、入って来た看守は一言も訳をきかず、格闘した看守の方も息を弾ませながら何事も説明しない。黙ったまま腰に吊っている剣をバンドごとはずすと改めて監房の内へ泥靴のまま突進していった。再び激しい格闘が起り、今度は岨が完全に組敷かれたらしく、幾度も、幾度も力の限り頭を監房の羽目板にたたきつけられている。一度うちつけられる毎に、わたしが息をつめて坐っている第一房の羽目の間からもうもう埃が立ち舞った。そんなにひどくぶつけられ、やがて頸でも締められたらしく変な喉音が聴えた。亢奮して看守が監房から出て来た。
 後から来た方の看守が黙って自分のいる第一房の監房へ入って来、羽目のところを調べ、手でなでて見た。それから二人の看守はやはり黙ったまま、協力して金棒から脱れ加減になった入口の戸の工合をなおし、すっかりすむと獣のようにつかみかかった方が出て行った。
 わたしはそれから直ぐ便所へ行き、通りすがりにとなりの第二房を見た。まるで何事もなかったようだ。岨も入れて七人の男がキチンと三畳の監房の羽目を背負って向い合いに並び、二三の者がうなだれている。保護室の前を通ると、眼の大きい与太者が、
「――どうです、先生!」
と声高に、消極的な抗議をこめた調子を表していった。黙ってわたしは便所に行って帰った。留置場内の出来ごとというものが、入口の戸一重のこちらに限られ、世間から遮断され、警察内部でさえ特別地帯とされているという事が、実際にはどんな事実を意味するものであるかを知った。また監房内で正座させる規則というものが、いかにブルジョア形式主義による偽善的効果をもつものであるかを知った。
(留置場へは署内のいろいろな警官が頻繁に来る。廊下においてある小|卓子《テーブル》の上に特別なケイ紙が備えつけてあり、そこに時間その他が刷ってある。それへ認印を押しにちょっと顔を出すのである。或るものは監房の方へ顔を向けズーと一通り廊下を歩いて視察した。だが、彼等は、たった今看守がどんなに岨に惨虐を加えたかということは表面何の変りもなく正座しているところから見てとることはしないのだ。形式的見まわりは夜中でも来た。看守は夜中も昼と同じように挙手の礼をし、『二十九名、内女一名です。異常ありません』と報告した。)

 四月十一日頃であった。朝九時頃、便所へ行きがけに保護室の角を曲ろうとしたら、第一房の錠が開く音をききつけて、待ちかねていたらしく、今野大力がすっと金網ぎわで立ち上り、
「蔵原がやられた」と囁《ささや》いて坐った。
「いつ?」
「二三日前らしい」
 このニュースから受けた印象は震撼的なものであった。帰りしなに、
「ひとりでやられたの?」と訊いて見た。
「そうらしい。しかし分らないよ」
 今野の、口の大きい顔は、そういいながら名状出来ない表情である。わたしは蔵原惟人には個人的に会ったことはない。けれども、日本におけるプロレタリア文学運動の発展の歴史と彼の業績とが、切っても切りはなせない関係にあることは、プロレタリア文学について一言でも語るものは一人残らず知っている事実である。日本におけるプロレタリア文学運動の当初から、その当時にあった客観的条件を、マルクス主義芸術理論家としての立場からたゆまず積極的にとりあげ、階級的文化運動を押しすすめて行った彼の努力は普々《なみなみ》ならぬものであった。蔵原惟人自身の芸術理論家としての発展の跡を辿って見ても彼が生活態度そのもので混り気ないマルクス主義者であったことは明らかである。彼は書斎的に、実践とは分裂させてソヴェト同盟のプロレタリア芸術論を日本に翻訳し紹介したのではなかった。解放運動の一環としてのプロレタリア文化運動、芸術運動を、常に革命運動の全体性との関係において実践して行きつつ、客観的現実に対する正しい政治的把握から芸術
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