家へあつまる予定になっているのだった。その家は今最も危険な場所となっているのであった。
 果して六時過ぎ演劇同盟の沢村貞子とプロレタリア産児制限同盟の山本琴子とが、留置場へつれられて来た。沢村貞子が動坂の家の方へ歩いて行くとむこうから妙な男と連れ立って山本琴子がやってくる。これはいけないと思い、そのまますれ違いかけたら山本琴子が、
「アラ!」
と声を出して立ちどまりかけた。それでスパイが沢村貞子に気づき、
「ホ、君も同類か。じゃ一緒に来い」
とつれて来られたのだそうである。
 沢村貞子はその夕方すぐ四谷署へまわされ、山本琴子だけが自分と一緒に駒込署に検束された。

 監房の中はわたしひとりになった。
 四月に入ってはいるが、毎日雨が降る。じかに床に坐っているので冷える。ヤスが和服と暖い下着をさし入れてくれたのを着て、綿ネルの襤褸《ぼろ》になった寝間着を畳んだものの上に坐っている。留置場へ入れられた翌日も雨で寒かったから、多勢の男のいる保護室の誰かがその上に座っておれと云ってその古ネマキを貸してくれたのであった。
 トタンの雨樋を流れる雨の音のあい間に、
「ねえ、旦那やって下さいよ、お願いします」
と、保護室でいっている。
「さっきの交代の時、次の時間まで待てと云ったからおとなしく待っていたんですから……ねえ、旦那」
 便所へやってくれというのである。わたしは腹立たしい心持と観察的な心持とでそれを聞いている。
 わたしのところからは見えないが、看守は保護室の真前のところをぶらついているらしく、
「……だから行けよ、戸をあけて」
と太い低い声でいっている。四畳半の保護室はやはり板敷であるが、戸は木の縦棧が徳川時代の牢のようにはまっているだけで、やせた腕なら棧の間から手先をさし込み、太い差し錠の金具をひっぱり出すことが出来るのである。今もそれをやってみる金具の音がした。
「――駄目だ!」
 錠が下してあるのだ。看守はそれを知っていっている。留置場じゅうがそれを聞いている。雨つづきと、板敷へじかに何日も坐りつづけているのと、粗食とで体は冷えこみ、少し寒い日は誰でも小便がひどく近くなる。それを一々看守にたのみ、監房をあけて貰って、小便に行かなければならないのだ。
 十分ばかり沈黙の後、今度は別な声で、
「旦那。一つ便所ねがいます」
とやや威勢よくいった。
「…………」
 それは黙殺された。
「――ねえ、旦那」
 再び元の中年寄の声だ。
「あけてやって下さいよ。洩れちゃいますよ」
「いいからそこへやっちまえよ」
「穢くってそんなことが出来るもんかね。ねえ旦那、お願いします、わたしゃ病気なんですよ」
「――嘘つけ!」
「本当ですよ。見せましょうか。淋病なんですヨ」
 看守はやや暫く経ってから、留置場の入口近く置いてある小テーブルの裏から鍵束をとり、ゆっくりと、さっきから頼んでいる保護室ではなく、わざと第二房の戸の方を先にあけた。
 留置場の看守は二人一組。午前八時から翌日の午前八時迄二十四時間勤務で、一日交代であった。一時間留置場の内に看守すると、次の一時間は外へ出て休む。交代の時は二人の巡査が互に挙手の礼をし、
「二十九名。二人出ています」
という風に報告し合うのである。
 同じ看守の日であった。第二房にいる岨《そわ》という青年が薬を買って貰いたいと看守に要求した。
「すみませんがオリザニンを買わして下さい。ずっと飲んでいたのが切れて困ってるんですから」
 その看守は監房の前に立ってチラリと留置場入口の戸についている覗き穴の方を振りかえり、それからこっちを向いてニヤニヤ笑いながら、
「うむ、よし。買ってやる」
といった。
「本当にお願いします。僕はこれからもう二十九日ぐらい蒸されるだろうし、未決へ行かなくちゃならないから脚気になると実際困るんです」
「だから、買ってやるっていってるじゃないか」
 東北訛のある発音の低声でその若い看守は答え、一つところに立ってニヤニヤしている。本当に買うのなら、看守は、留置人の番号によって保管している金を出し、小使に命じなければならないのだ。
「――お願いします」
「うむ」
「……この前猿又を頼んだ時にも、あなたは返事ばかりして結局買ってくれなかったじゃないですか。――頼みますよ」
 爪先だった大股で入口の覗き穴のところから外の様子を見て、誰も来そうもないとわかると看守はまた落付きはらって、お前の方がとるべき態度をとれば、こっちもきいてやるという意味のことをいった。
「六十日もいて、原籍をいわないじゃないか」
「われわれ共産党員には鉄の規則がある。それは守らなけりゃならないのです。……だが、そんなことはあなたに直接関係ないじゃないですか。買って下さい」
 彼は広島で青年同盟の中心的活動をして、東京へ出て間も
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