置人がアンペラ草履で便所の往復に歩き、看守は泥靴であるく床である。そこへかけた雑巾を洗うのが、顔を洗う洗面器である。留置場でヒゼンが流行《はや》る話をきき、またこの不潔なやり方を見て、何よりわたしは淋毒が目にでも入っては大変だと恐怖を感じた。
 ともかく顔を洗い、監房に戻って坐ると、寒さが身にこたえはじめた。七時すぎになると、小使が飯と味噌汁を運んで来た。塗りが剥《は》げ得るだけ剥げきった弁当箱に、飯とタクアンが四切れ入っている。味噌汁は椀についでよこすが、これがまた欠け椀で、箸はつかい古しの色のかわった割箸をかき集めたものである。こういう食いものを、監房の戸の下に切ってある高さ四寸に長さ七八寸の穴から入れてよこす。
 駒込署の弁当は、三度とも警官合宿所の賄から運ぶものであるが、請負制らしく、一食八銭の規定が実質的に守られてはいなかった。八十日の間味噌汁はいつも、昨日の昼或は夜のあらゆる残物をぶち込んで煮なおしたものであった。それだから一椀の汁の中から、葱のこわい端が出る。豆腐が煮くたれてこなごなになったものが出る。キャベジの根を切ったものが出て来る。穢い食物である。
 昼飯十一時すぎ。夕食は四時過であった。副食物は、粗悪なヒジキ。刻み昆布の煮つけ。大根と悪臭を放つ魚のあら骨とのごった煮。ジャガ薯煮つけ、刻み牛蒡《ごぼう》等で、昼、夜と二食同じ副食物がついた。そして、それは大抵二日ずつ繰返される。「がんもどき」を八十日に一度、粗悪な魚のきりみ一度。食いかけの入った干物一度、稀に豚のコマ切れのまざった牛蒡の煮ものは、御馳走である。食物の粗悪なことは留置場の一般的不平であった。弁当が配られると、
「チェッ! 何と思ってやがるんだ。出たら一つこの弁当屋にあばれ込んでやるから!」
などという声がした。しかし当時駒込署には左翼の同志が少数で、その一般的不平をとりまとめ、例えばメーデーの監房内闘争にまで高めるというようなことはされなかった。大体、駒込署の弁当が実質以下であることには理由があった。検束拘留された者の弁当代は留置期間警察もちである。ところが拘留があけても官僚的警察事務の関係で、その朝釈放されず、さらに一日または二日と引っぱられる者がしばしばある。署の会計係は帳面づらにしたがって賄いに支払ってゆくから、賄は警察の形式主義によって年に何百本かの弁当を食い倒されていなければならない実情にある。警察の賄などこそ零細な利潤目あての営業であるから、一食八銭のうちから利潤と食い倒される分の埋め合わせとを差し引き、留置人には五銭にも足りないような劣悪な弁当を食わせることになっているのである。留置場第一日において、わたしは先ずそのような味噌汁で朝はやや体を温め、昼をすましだんだん落着いた心持になって来た。何日留置されるかは知らないが、わたしにとって検束は始めての経験である。三畳の監房の中をゆっくり歩きながら考えた。日本プロレタリア文化連盟に関する問題でわれわれのとり得る態度は一つしかない。日本プロレタリア文化連盟は、合法的な文化団体であり、発展する人間社会の歴史性にしたがって文化活動を行う団体である。プロレタリア婦人作家として、自分は卓越した多くの同志とともにそのために働くことを名誉ある任務と信じている。日本における一人のインテリゲンツィア出身の婦人作家として、最も当然な必然な歴史的発展の道に立っていることを信じて疑わない。われわれのなすべきことは、解放運動の重要な一環としてのプロレタリア文化運動の必然性を明らかにし、当然の合法性とその活動とを主張し擁護、拡大することだけなのだ。支配階級が自身の崩壊を守ろうとして、革命的大衆と、その文化組織に向って投げる狡猾で卑劣な投繩は、綿密に、截然と切りとかれなければならない。わたしは、ソヴェト同盟の文化活動の発展と実績とを自分の目で見ている。地球の六分の一を占める社会主義社会では、婦人大衆にとってもどれ程合理的な生活が営まれているかという事実を目撃し、その社会的事実を生活してきているのである――。
 ごく小声で歌をうたいながら、わたしは監房内の穢れた板壁に刻みつけられているらくがきを見た。らくがきの数は少く、それも削ったり、字を潰したりしてあるのが多い。高いところに原政子様と書いてある。食物を出し入れする切穴のわきに「党」と深く刻まれ昭和三年八月十日と書いてある。「万歳」と薄くよめた。「日本共産党」と左側の板壁に大きく刻まれ、その字の上を後から傷だらけにしてある。
 自分一箇についてわたしは何の心配をも感じず、深い客観的な自信というようなものに満たされてあったが、昨夜以来の同志たちの消息が気にかかった。夕方になるにつれ不安な期待が生じた。四月八日の夕刻、日本プロレタリア文化連盟婦人協議会の婦人たちが動坂の
前へ 次へ
全12ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング