『働く婦人』の問題もある。……」
黙っていると、中川は、
「どっちみち大したことはないさ。二三年行って来りゃいいんだ。――気の毒だが君もこれからは不安な生活をしなければならないね」
自分の顔から目をはなさずそういって煙草の煙を何度にも口からはいた。
わたしは自分が日本プロレタリア文化連盟の関係によって引致されたものであること、そして、官憲は、他の文化団体の同志たちに対してと同様に、合法的な日本プロレタリア文化連盟を潰し、合法的な階級的文化活動者としての活動を妨害するための、陋劣《ろうれつ》な作業を、私に向っても開始したことを理解したのであった。
中川は宮本の行先について訊いた。私が何を知っていよう。中川は私の所持品を調べたのち、
「さ、留置場へ行こう」
先に立って高等室を出、警察の正面玄関横から登る階段とは違う狭いガタガタした裏階段を下り、刑事室の前に出て、右手つき当りの鉄格子入りのくもり硝子の戸をコツコツと叩いた。戸の高いところにその部分だけ素どおしのガラスで小さい円い「覗き」がついている。一対の目玉がそこからこっちを見、すぐ掛金をはずした。中川は開けた戸の外に立っている。わたしだけ内の廊下に入ると、正面に二つ並んでいる鉄格子のなかが、その中でぞっくり伸び上った沢山の男のいろいろな形の顔と囁きで充満した。脂くさい、不潔な臭気とむれ臭い匂いが夜の空気を重くしている。ここは上の高等室よりなおなお薄暗かった。頑丈な鉄格子のすき間から体は動かせないまま何ともいえない熱心な好奇心をあらわしてこちらを見ているどっさりの眼と、そうやって人間を詰めた檻の外に、剣を吊って制帽をかぶった警官が戸に掛金をかけて入っている光景は、野蛮な、常態を逸した第一印象をわたしに与えた。看守は板壁に下っている下足札のようなものをとって私の風呂敷包みをしばり、
「二号というのが君の番号だから」
といった。身体検査をし、靴をぬいでアンペラ草履とはきかえた。便所に行くために左端れの監房の前を通ったら、重りあってこっちを見ている顔の間に一つ見馴れた顔を認め、わたしの目は大きくひろがった。文化連盟出版所の忠実な同志今野大力が来ている。角を曲りながら小声で、
「きょう?」
と訊いたら、今野は暗い檻の中からつよく合点をし、舌を出して笑いながら、首をすくめて見せた。
女のいれられている第一房は三畳の板敷で、垢光りのするゴザが三枚しいてある。鈍い電燈の光を前髪にうけ、悄然として若い女給らしい女のひとが袖をかき合わせてその中に坐っていた。ここへわたしも入れられ、向い合って坐った。三方の壁は板張りである。天井を見上げると薄青いペンキ塗だが、何百人もの人間が汗と膏《あぶら》とをこすりつけた頭の当る部分、背中でよりかかる高さのところだけ、ぐるっと穢《よご》れて、黒くなっている。女給らしいひとは、わたしの様子をそれとなく見ていたが、しばらくして、
「冷えますわねえ。……私おなかが痛くて」
と堅く冷たいゴザの上で体を折りまげた。
八時になると留置場の寝仕度がはじまった。留置場独特の臭気を一層つよく放つ敷布団一枚、かけ布団一枚。枕というものはない。廊下についている戸棚から各監房へ布団を運び入れるところをみていると、女の方はどうやら一組ずつあるが、男の方は一房について敷が四枚、かけ四枚。それに十人近い人数が寝るのだった。
「旦那。今夜もう一枚ずつ入れさせて下さい。お願いします。冷えると夜中に小便が出たくなってやり切れないんです」
切れた裾が襤褸《ぼろ》になって下っている絹物の縞袷を着た与太者らしい目のギロリと大きい男が、そういって小腰をかがめ、看守の返事を待たずさっさと布団を出している。卑屈な要領のよさというようなものが、その男の挙止を貫いている。わたしは、監房の戸にくっついて立ち、そこに張ってある目の細かい金網をとおして、二尺とはなれぬ廊下での光景を見ているのだ。九時になり、十時になり、十一時頃になるまで、ガラガラと留置場の入口があく毎に、わたしは臭い布団の上におきなおり、誰が入って来るかと廊下の方をみた。宮本が、もし今夜家へ帰るとすれば、九時頃帰るといった。留置場の戸が開くと、万一と、思わず頭がはね上るのであった。
ぐっすりと一息に眠った。午前五時頃に目が醒めた時は、もう隣の房、その隣の房でも起き仕度をしている。まだ夜はあけきらず、暗い。巡ぐり戸棚に布団をしまい、洗顔にとりかかる。
監房の外の一間幅に四間の板廊下の右端にトタン張の流しがあり、そこに水道の蛇口が一つ出ている。半分にきった短い手拭はその横の板壁に並べてかけてある。石鹸はつかわせない。歯ブラシもつかわせない。水で顔をぶるんとするのであるが、二つあるトタンの洗面器は床にかける雑巾を濯ぐのと共同である。その床は留
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