ていいよ」
と云った。
「つまり小樽むきということだね、……じゃ、失敬」
夜気に溢れる笑声に向って格子をしめ、小林は下駄の音を敷石に響かせて去った。
村山知義が召喚されたのはその翌日である。
四月七日の午後六時すぎごろであった。街燈はついたがまだすっかり暗くはなっていない夕暮の通りをわたしは一人鞄を下げて歩いて来て、家の格子の外に立った。ふだんのとおり、静かに格子は閉っている。ベルを鳴らすと、誰かがすぐ出て来て格子の錠を内からはずしたが、その時、後からさす電燈で、男の頭のかげがくもり硝子にちらりと映った。おや誰が来ているのかしら。そう思った時、もう格子が開き、こちらを向いて家の中にむんずと立ちはだかっているのは、真黒い顔をした警視庁の山口であった。
「警視庁です」
威圧的に云った。黙って靴をぬいで玄関に入り、
「いつからいたんですか」
とわたしは訊いた。
「今朝七時からお待ちしていました。――はりこみです」
わたしが非常に不愉快な気持で、ずんずん廊下を茶の間の方へ行くと、後から、
「お一人ですか」
と山口が云った。
「一人です」
「どこへ行っていたんです」
「親の家です」
「×町の方ですか?」
意外そうにききかえした。
「いや、田舎に家がある……」
台所のわきの四畳半の茶の間へ行くと、入ったばかりの所に小娘のヤスとその姉とがかたまって、息を殺した目つきをして、鞄を下げたなり入って来たわたしを見上げた。その脅やかされた様子を見ると、侵入者に対する憤りがこみ上げ、わたしは、できるだけあたりまえの調子で、
「お茶を入れておくれ」
と云った。帽子をぬぎすてて、チャブ台の前に坐った。熱い茶をゆっくり飲みながら、家がこういう状態になったことを、何とかして宮本に知らす方法はないかと考えた。
わたしたちは仕事をもって海岸にある親の家に行っていて、自分ひとり帰って来たところであった。宮本とはステーションでわかれたぎりである。彼は、それから広い東京の中で、どこへ用たしに行ったか、わたしには分っていない。だが、それでも知らす法はないものか。ぜひ知らせたい、と思った。ここはわが家で、しかも今は敵に占領されたのだ。わが家と思って、彼が帰って来ることがあってはならぬ。――
わたしが時間をかけて茶を飲んでいる次の部屋の前にある縁側の方から、もう一人別なスパイが首から先に上って来て、山口とこそこそ話し、しかも抜け目なく襖一重のこっちの気勢を監視しているのがわかる。連れてゆかれるものと思い、わたしは生卵を二つのんだ。やがて、電話か何かかけに山口が出て行った。わたしは家の者に耳うちして二階へ上らせた。そして若しかすると何かの合図になるかと思い、窓や、電気スタンドの工合を平常と違うようにさせた。山口がすぐ戻って来ると、入れ違いにもう一人のスパイが足音を盗んで二階の階段をのぼって行った。窓も、スタンドも元のとおりにして来たと見え、間もなくまた足音を忍ばして二階から下りて来た。それがすむと山口が、
「じゃ、これから任意出頭という形で、駒込署まで来ていただきます。多分今夜かえれると思いますが……」
わたしは、ゆっくり服を温い方のに着かえ、外套をも裾の長い方のにとりかえた。家のものと留守をどうするということを話していると、
「あまり話されちゃ困ります」
と云った。
「家のものだもの、話があるのは当りまえですよ」
「――家のものだからいけないんだ」
ハンケチを二枚持ったら、
「それより、手拭の方が便利でしょう」
と山口が注意した。
「――じゃ行って来るからね、気をつけておいでね。心配しないでいいんだから――」
その時外はすっかり夜で、細かい雨が降り出していた。寒さの用心にスウェーターを包んだ風呂敷包みをかかえ、傘をさし、もう一人のスパイと人通りのない雨の横通りを歩いて駒込署へ行った。
二階の狭い高等室に誰もいず、カサのないむき出しの電燈が、机の上のさまざまな印形の詰った箱だの「自警」という雑誌の表紙だのを照らしている。あたりは埃っぽく、きたなく見えた。椅子にかけて見廻していると、
「――どうした」
瘠せぎすで神経質な顔に一種の笑いを浮べて中川が入って来た。警視庁の芸術運動係りとして、プロレタリア文化活動をする者にとって忘れる事の出来ない暴圧係りの中川成夫という警部だ。口先を曲げ、睨《にら》むようにしながら、
「君ひとり様子を見に帰ったというところか」
といった。
「あなたがたの方からいうと、そういうことになるんですか」
「そうさ」
日本プロレタリア文化連盟に関し、今度は君の態度を明らかにしてもらおう。文化団体の資金関係。上《うえ》との関係。
「それに、こういうものもある」
書類入鞄から中川は「大衆の友」の附録、選挙特輯号を出して見せた。
「
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