ことが感じられた。
 わたしたちはアンパンをたべながら、婦人委員会の報告、議案の内容について打合わせをした。婦人委員会の一般的任務、組織活動、創作活動について報告し、議案としては、満蒙における日本帝国主義侵略戦争以来激化したファッシズム、社会ファッシズム文化・文学に対する、婦人の独自的抗争の問題、植民地被圧迫民族婦人に向っての積極的働きかけの問題などが課題とされた。
 手帳へそれらを箇条書きにしていると、きっと口を結ぶようにしてそれを見ていた窪川いね子が、急に、
「ねえ、私もう、いやんなっちゃった」と云った。「親父がどうも気が変になったらしいのよ」
 彼女の父親は大森に住んで電燈会社だかに勤めていた。わたしにはすぐ彼女の心持がわかった。夫は敵に奪われ、出産を目前にひかえている彼女が、そのことにも責任を負ってやらなければならぬ立場にあるのだった。
「……中気なの?」
「早発性痴呆とかいうんじゃないかしら……私の風邪もそのおかげなのよ。帝大病院へつれて行ったんだけれど、電車を降りてずっと歩き出すとそのまんまどこまででも真直に行っちまうんですもの。――傘をひろげると、すぼめることが分らなくなるんですもの……とても骨を折っちゃった」
「会社の方はどのくらい休めるの?」
「今は欠勤だけれども、どうせもう駄目だわ」
「そんなに遊んだことがあるのかしら……」
 第一次世界戦争が終り、日本に気違い景気があった頃、彼女の父親は丁度妻を失った時であった。気違い景気のいく分のおこぼれにあずかり、彼も小市民らしい遊蕩をやった。相当ひどくやって、九年の恐慌とともに、その放埒は終結したが、今その不運な成果が現れたという訳なのであった。
「ね、だからマルキシズムは嘘じゃない! こんなことにまでもちゃんと日本資本主義発展と崩壊の過程が現れているんだもの」
 わたしがひどく力をこめて素朴に云ったので、いね子も笑い出し、
「全くね!」
と雄大な腹の上の紐を結びなおした。
「わるいことに悪いことが重るって云うけれど、ちゃんとそれだけの客観的或は歴史的理由があるんだものね」
「そうさ! 窪川鶴次郎がもってゆかれたこと、いね子が一人で赤坊を生まなければならないこと、大森で気が変になったこと、みんな一連の問題で根もとはたった一つなんだもの……。がんばろうよ、ね」
 組合の仕事をしている人との間では、仕事の関係上、結婚生活が従来の型では行われない場合が多いらしい。プロレタリア文化活動の分野でも、運動が高まるにつれ、家庭生活も当然変化して来て、だんだん夫婦がいつも必ず一つ屋根の下に暮すことは出来ない場合がふえそうだという話が出た。
「一緒に暮せる間、万々遺憾ないように大いに積極的に暮すべきだわね」
「そんなことになると、作家同盟の婦人作家が片っ端から『愛情の問題』の傑作ばかり書いてやりきれなくなっちゃうかもしれないね」
 これには思わずみんな笑い出し、云った当人の窪川いね子も床の上に座ったなりハアハアと笑った。笑いながら、この問題はみんなの心につよく刻まれたのである。

        二

 大会が迫っていること。「働く婦人」の締切期日が来ていること。「婦人之友」に連載していた小説を書かねばならないこと。それ等でわたしは毎日忙しい。宮本もさらにいそがしく、一つの家におりながら、廊下で顔を合わせたりすると、
「どう?」
「どうしたい」
という風な言葉を交した。けやきの木の下にある二階家は活動的な空気でいっぱいである。

 四月三日の晩、小林多喜二が来た。そして、中野重治が戸塚署へ連行されたことを話した。作家同盟の事務所できいて来たのだそうだ。
「原泉子は知っているだろうか?」
とわたしがきいた。中野の妻は左翼劇場の女優として働いているのである。
「さあ、どうだろ、まだ知らないんでないか」
 小林が特徴のある目つきと言葉つきとで云った。
「電話をかけてやるといいな」
 わたしは駒込病院前の、背後から店々の灯かげをうける自働電話で築地小劇場を呼んだ。原泉子はすぐ電話口へ出てきた。てきぱきとした調子で、
「知ってます。××さんの細君が知らしに来てくれた」
と云った。
「今夜、あたし十一時すぎでなくちゃ帰れないんです」
 何のために、どの位の予定で中野重治が引致されたのか、それは原泉子にも不明であるらしかった。わたしは電話をきり、動坂の中途で紙袋に入れた飴玉とバットを買って戻った。小林多喜二は元気にしゃべって十時すぎ帰りがけに、玄関の格子の外へ立ったまま、内から彼を見送っているわれわれに向い、
「どうだね、こんな風は」
と、ちょっと肱を張るようなかっこうをして見せた。彼は中折帽子をかぶり、小柄な着流しで、風呂敷包みを下げている。宮本が、
「なかなかいいよ。非常に村役場の書記めいてい
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