たった。「トラム」の歌もうたった。初め一つの歌を大きい声で揃って歌ったら、外は雪の夜だのに温くなっていい心持になって、もう一つ、もう一つと歌った。しまいに暑がって×子が立って窓をあけた。
 その夜十一時すぎの上りで自分は東京へ向った。新宿へ降りたのは省電の初発が出てまだ間のない早朝であった。駅のプラットフォームのまだどこやら寒く重たい軒のかなたに東雲《しののめ》が見えた。東京の夜があけて間もないらしいボロ円タクで走っているうちにだんだん家が気になりだした。角の交番を曲ったところから五十銭だまを握っていて止るとすぐ降り、家までの横丁をいそいで歩いて玄関をあけようとしたら閉っている。戸があいてまだ寝間着《ねまき》の家のものの顔が出るとすぐ訊いた。
「宮本さんは?」
「いらっしゃいます」
 それで安心して、のろのろ顔を洗っているところへ宮本が降りて来た。
「どうだった?」
「よかったわ、行って……」
 暫く黙っていて、彼はやがて、
「――よく帰って来たね」
と云った。
 日本プロレタリア作家同盟は三月十五・六・七と三日間にわたって第五回大会を開くことになっていた。常任中央委員会から出される報告の一部として婦人委員会の報告、議案が書かれなければならず、その執筆者は、窪川いね子と自分とに決定されていた。婦人委員会は、作家同盟内の婦人作家の世界観と技術とを高め、優秀なプロレタリア婦人作家として成長するために役立てるばかりでなく、作家同盟が一九三一年からの著しい文学活動の発展として拡大したサークル活動に独自的な積極性で参加し、企業・農村における勤労婦人の文学的自発性を鼓舞・指導し、プロレタリア文学の影響のもとに組織する任務をもっている。一九二九年の世界経済恐慌以来、日本の農村と都会との勤労婦人は、労働条件の悪化、日常生活の困窮化によって急速なテンポで階級性に目ざめつつある。これらの勤労婦人たちが、解放に向って闘う階級の半身として熱烈に現実生活の細部で行っている闘争の実践、そのいろいろな姿は隈なく日本プロレタリア文学の中に活かされなければならない。同時に、そういう勤労婦人たちが、工場の職場、寄宿舎の片隅、或は村の農家の納戸《なんど》の奥で鉛筆を永い間かかって運びながら丹念に書く通信、小説は、たとえ現在では片々として未熟なものであろうと、大胆にプロレタリア文学の未来の苗床として包括されて行かなければならない。下手であろうとも、それらの文章はまず勤労婦人達が自分たちの毎日の生活を通じて階級的な主張を表現してゆく画期的な端緒であり、それこそ正しい階級の武器としてのプロレタリア文学の萌芽である。そしてまた、それはいつも下手であるとは決していえない。主題は自ら階級的見地で扱われていて、或る場合はひどく上手でさえあるのだ。今日真に創造的な婦人作家を生み得る可能をもった階級は、崩壊に向うブルジョア・インテリゲンチャ層ではない。新社会の建設に向って擡頭するプロレタリア・農民層である。
 下諏訪の女工さん達の文学サークルの活動ぶりなどは、この事実を雄弁に語っている。
 下諏訪のサークルから三月三十日に帰京し、その次の日であったか自分は下十条へ出かけた。窪川いね子は数年来下十条に住んでいた。三月二十五日頃日本プロレタリア文化連盟の関係で検束された窪川鶴次郎はまだ帰らず、出産がさし迫っているいね子は風邪で動けないという話である。
 二階へ登ってゆくと、もう数人作家同盟の婦人作家たちが来ている。いね子は床の間よりに敷いた床の上にどてらを羽織って半身起き上り、顔を見るなり、
「ああ、よく来てくれました」
と云った。
「どうなの?」
「もう大抵いいんだけど、ひどい熱が出ちまった。こないだ雨の中をビシャビシャに濡れて歩いたもんだから……」
「窪川さんは? 出られるの?」
「出られるんじゃないかしら。きっと虱《しらみ》だらけになって来ると思って、ちゃんと着物を用意しているんだけれど……こないだ行って親子丼をたべさせて来た」
 姙娠のためにやつれ、また風邪でやつれながら、窪川いね子は持ち前の落着きと微かなユーモアを失わず、おいしいお茶を入れてくれた。
「戸台さんがゆうべから帰らないのよ。どうしちゃったのかしら……」
 同志戸台は日本プロレタリア文化連盟で働いている。大体「コップ」に対する官憲の妨害は書記長や同志窪川が捕えられた時に始ったのではなかった。ほとんど今年の始めから、絶えず書記局は襲われ、一人や二人、短期の犠牲者は順ぐりであった。それと闘ってやっと来ていたのだが、昨夜からまた戸台の帰らない事実は皆をやや不安にした。二十八日にブルジョア新聞が発表した「コップ」への暴圧が、逆宣伝的に報道された範囲には止まっていず、沈黙のうちに、陰険に各参加団体内部へと拡大されて行っている
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