「ひかげの花」のうまさをとりあげる傾向が生じたのであった。これらのことをふくめて総体に見れば、老大家たちの作品の多くは、その社会的文学的効果において、文学を前進せしめ、新たな深みをあたえる意義は持たなかったのである。
正宗白鳥は自然主義時代からの作家として今日も評論に小説に活動して一種の大御所のような風格をもった存在となっているのであるが「ひかげの花」について菊池寛の見解に反対した意見(十一月号『改造』)の中には、その矛盾においてなかなか教えるところがある。
菊池寛は「ひかげの花」について、荷風も下手になったといい、「この頃はエロでなくても、傾向がわるいという理由ですぐ切り取りを命ずる警保局が、なぜあんな世道人心を害」する作品を切りとらせないかといった。正宗白鳥は、菊池が自身の側においたような風でいっている警保局云々の考えかたを、そのようにケシかけたりするのは意外のようであるとし、山本有三、佐藤春夫、三上於菟吉、吉川英治その他が組織した文芸院の仕事の価値をも言外にふくめて「文学者がさもしい根性を出して俗界の強権者の保護を求めたりするのは、藪蛇の結果になりそうに、私には想像される」といっている。国家が芸術なんかを保護しなかったのはかえってよかった、現在保護と監視は同義語である、と説破しているところは、やはり自然主義作家正宗の進歩性がそのおもかげをのこしていると感じられて愉快である。
けれども、白鳥は、荷風の人となりと「ひかげの花」の境地には賛成しているのである。「戦国時代には、弱者たる普通の民衆は、戦々きょうきょうとしてその日その日をどうにか生き延びていたであろうが、せちがらい[#「せちがらい」に傍点]今日『ひかげの花』の男女が、どうにか生きのびているのも同じ訳ではあるまいか」「人生の落伍者の生活にも、それ相応の生存の楽しみが微かにでもあることを自ら示している」ところの人間の希望を描いた作品であるとしているのである。ここに到ると、白鳥は自然主義の作家としてまぎれもなく持っている自身の制約性を、さながら自分から私たちにとき示しているかのようではないか。民衆ははたして単なる弱者であろうか? 社会の発展が未来に約束している希望は、「ひかげの花」にもられている希望と同質のものであろうか? 「ひかげの花」の二階生活にあるものをある種の希望と呼び得るならば、それは、そのようなものをさえなお人間生活の希望の部へ繰り込まなければならない社会の現実について憤りを禁じ得ぬ種類の、最も消極的幸福のかげである。荷風の消極の面を白鳥は自身の永年の惰力的な楽なニヒリズムで覆うてしまっているのである。
また、菊池寛のかつぎ出したものに対して、白鳥が、保護[#「保護」に傍点]を拒絶した態度は興味があるけれども博覧な彼もついに見落していることがある。それは、この地球上には世界に比類ない大きい規模で諸芸術を花咲かせ、作家の経済的安定の問題から、住居・健康のことまで具体的な考慮をはらい得る国家が現実に存在していること、そして、そこでは山本有三が松本前警保局長と対談したとは全く異った内容性質で、作家が国家機構へ参加していることなどを、第一回全連邦ソヴェト作家大会の記事がジャーナリズムの上に散見するにかかわらず、正宗白鳥は作家たる自身の生活につながる問題として常識のうちにくみとり得ないでいるのである。
石坂洋次郎が去年から『三田文学』に連載している「若い人」は、はなはだしく一般の注目をひいて以来「馬骨団始末記」「豆吉登場」などつづけて作品が発表されるに至ったのは、以上のように純文学の新生を期しながら、作家たちの実生活、創作活動は依然として非生産的な雰囲気のうちに低迷していた折から、一脈新鮮な息づかいが、文壇的には新人であっても、すでに何年か小説をかいてきていた作者の作に感じられたからであろう。
今からほぼ十年ほど前に、慶応の国文科をで、葛西善蔵、宇野浩二らに私淑し、現在では秋田県の女学校教師であるこの作家の特徴は、非常に色彩のつよい、芝居絵のような太い線で、ある意味での誇張とげてもの[#「げてもの」に傍点]の味をふりまきながら、身振り大きく泣き笑いの人生を描くところにある。
資本主義の都会生活に不自然に一様化された小市民の、臆病で、窮屈で、しかもこざかしい生活態度に反抗し、同時に作者自身の近代的弱さ、複雑さを克服しようという意気ごみで、石坂洋次郎の作家的意企は、思想よりも生活を、精神よりも肉体を描くことに置かれているらしく考えられるのである。
表面的に理解すると、精神や肉体が全く二元論的に見られているようにもとられるその標語で「馬骨団始末記」の作者は、これまでの純文学作家たちがしていたように、単純な一つの行為をするだけにさえ三十枚、四十枚とその心理的過程を追求する小説を書くようなことを目ざさず、とにかく、生きて動いて直截に行動している人間を、生きて動いている人間との関係において描きたいといっていると見るべきであろう。
それらの心持を十分に推察しながらも、私は一つの疑問に逢着した。初期の暗鬱な涙の中にユーモアをもった短篇から「ふてぶてしく」「大手を振って生きよう」という今日の信念に到達した道には、石坂洋次郎として進展の足どりを認めることができるであろう。然しながら、すべての批評家が指摘している誇張癖とともに、作品のうちに試みられている強さ、逞しさ、単純で無垢な野蛮さへの翹望というようなものの本質は、どこまでも真に新しい社会性を含み、それを方向としているであろうか。私はこの作家によって意企されている美しい荒々しさというようなものが、八〇年代のロシア・インテリゲンチアの世界観に対して、新たな階級の感情として生れたゴーリキイの初期のロマンティシズムとは全く異った性質をもつものであると感じる。作者が従来生きてきた社会層の枠の内での常識が裏がえしの形で出された、人為的なものではないかとあやぶまれるのである。
この作者の才能を認める川端康成その他多くの作家たちは、石坂の作品にある誇張癖、古めかしさなどを、一概に咎めだてすることはできぬといって、作品にこもっている作者の生活感の豊かさを評価している。もっともではあると思うが、私どもは、この作家の作品にある古めかしさ、誇張などを、ただ手法上の不十分さという風に切りはなして問題にしただけでは、まだ解決されないものを感じる。また、作者自身が、賢く第三者の評言をうけいれて、そのマイナスの意味をもつ特徴は自分が育って今も住んでいる東北地方の陰鬱な風土の影響であろうと自省しているところに、この問題を真に文学上発展させるモメントの全部があるとも考えられない。
なぜなら、この作家の作品にめだつ誇張は、思わず知らず作者の若さが溢れ出したという種類のものでもないし、荒削りな北方の自然にかこまれた田舎の人の重いきつさ[#「きつさ」に傍点]というものでもない。ずっと計画性のひそんだものとして私どもにはうつる。作者が、制作にあたって意識をある方向に強調することから誇張が生じていると思われ、そこに何かいい意味にもわるい意味にも自然でないものが直感される。そのギャップを、強引にこのごろまたはやり出しているニイチェ風に押しきり得るものか、あるいはその折れ目からかえって全くインテリゲンチア的に虚無的な低下へまで堕ちこむか、私たちは、石坂洋次郎がすでに一つの重大な内容をはらんだ前進をよぎなくされていることを感じるのである。
本年度に入って「ナルプ」が外的・内的の圧力によって解散したこと、ならびにかつて文学の全野の上に鮮やかな階級性の問題を押し出して来ていたプロレタリア文学運動の指導者たちのある部分が、敗北して、現在では自分たちの階級作家としての実践で歴史の推進を実証することはできぬものとなって再び一般文学の中へ還って来ている事実。この二つは、プロレタリア文学を建設しようとしている作家たちを混乱させたと同時に、一般のインテリゲンチアに、自身の消極性を正面から肯定させるような結果に導いている。
横光利一の「紋章」が、現在ブルジョア文学の上では非常な注目をひいているのであるが、その騒がれている心理的な背景は、この問題ときりはなして理解し得ないものであろうと考えられるのである。
数年前、プロレタリアートの擡頭とともに文学における階級性の問題が提出された頃、インテリゲンチアの苦悩と不安とは今日と全く別様な本質をもっていた。新たな世界観を我ものとして身につけ切れない自身を自覚して、自分の弱さを苦しく思う心持。インテリゲンチアの急速な階級的分化の必然はわかっているのであるけれども、自分はさまざまの理由からその移行ができないことについての自己嫌悪。そのような内容をもつものであったと思う。それらの人々の当時の不安は、自分たちの生活の無内容を、より積極的な階級進展の必然性の前に承認した意味では、ある前進的な意味をふくんでいたのであった。
こんにち、ブルジョア・インテリゲンチア作家たちは、何かの形で、いわば、いなおっているといえると思う。文学における階級性の問題は、現在の情勢の下では、それが具体的になれば、いずれ治安維持法にうちあたる性質のものである。その現実にぶつかって見れば楽なものでないことは、勇ましげにあったプロレタリア作家たちの敗北に現れている。自分たちがそんなことに進めないし、進めなかったのはむしろ当然である。自分たちはこれでよいのだ。以上のような安価な見透しに立って、インテリゲンチア作家たちは、つまりマルクス主義のこちら側で、自己をうちたてよう、強い自己を文学の上にうちたてて右からの波、左からの吸引に対し、高邁に[#「高邁に」に傍点]己れ一人を持そうとしていると観察されるのである。純文学家が「不安の文学」とともに問題としている文学における自我あるいは「自己意識」の確立の問題は、それが、マルクス主義に打ちあたってのちのブルジョア・インテリゲンチアの間に再起した個への還元の問題として、大きい社会的内容を私どもに印象づけるのである。
「紋章」については多数の人々がさまざまにそれを突いていた。その批評にあらわれた抽象的な物のいいかた、哲学の引用の様子そのものが、すでに、まざまざと今日の知識階級がどんなに古い知識の破片をうず高くかぶって、窒息せんばかりの状態におかれているかを感じさせる有様である。
横光利一は「紋章」の久内の生きかたによって、今日大多数の小市民・インテリゲンチアが求めている階級性を絶した自己の確立感、不安、動揺の上に毅然と立つ一個の自由人の境地を示そうとしているのである。雁金八郎という、小学校をでたばかりであるが発明についての才能をもった男が、久内と対蹠的人物として「紋章」にでてくる。その雁金の存在と醤油製造、乾物製造についての発明の過程や、久内の父である山下博士の雁金に対する学閥を利用しての資本主義的悪策など、それらがわたしたちの現実の見かたから批判すれば、リアリティーをもって描かれていないと批評したところで、作者横光は当然のこと「紋章」の崇拝者青野季吉を先頭とする多くの読者たちは、ぴくりともしないであろう。
また、これとは反対に、プロレタリア作家が属す階級とその文学の性質について知りながらも、やはり「紋章」に心ひかれ、その理由を、「紋章」では作者が生産をとりあげようとしているとか、近代的な科学性を示しているとか、あるいは進んで作者はそれを意企していないであろうが、資本主義社会機構を計らずもあばいているではないかなど、合理化をしている姿をみれば、先ず作者である横光利一が、ふん、と豪腹そうに髪をはらって、自意識[#「自意識」に傍点]ないプロレタリア作家を見下し、うそぶくであろう。「あれは、実験室的なものだよ」と。――
何かで、この作者が「考えごとをしているときは働いている時だと思う」と言っている言葉を読んだことがある。多くのインテリゲンチアが、自分たちはこれでいいのだと自身にいいきかせつつ、自身の思考力を疑ったり、その
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