思考生活を狐疑したりしている間に立って、横光は処女作「日輪」にもすでにうかがえる生活力の強引さで、自分の独断を強引に文学の中に具体化しようとしている。雁金がリアリズムの見地でリアルであるかないかは、彼にとって問題でなく、作者が自分の主張の代人である久内を自由人として鋳出すに必要なワキ役のタイプとしていかす必要にだけ腹をすえて、雁金も山下も、妻、初子すべてを扱っている。長篇「紋章」の終りに到って久内に、
「日本の国にはマルキシズムという実証主義の精神が最近になって初めてはいり込んできたということは、君も知っているだろうが、こいつに突きあたって跳ね返ったものなら、自由というものはおよそどんなものかということぐらい知っていなくちゃ、もうそれあ知識人とはいえないんだからね。これからの知識人というものは、自由の解釈いかんから始ってくるんだ。」
といわせ、その自由の内容を「自由というのは自分の感情と思想とを独立させて冷然と眺めることのできる闊達自在な精神なんだ。雁金君なんかは僕にとっちゃたしかに敵だが、敵なればこそあの人の行動は、僕に誰よりも自由という精神を強く教えてくれたのだ……。」と結論せしめるために、あれだけの長篇を、ぐっと引っぱってきている。
 作者のこの気象から出る作家的な気張りは、その文章の構えかたにもあらわれ、一般読者は作中の人物、事件は何となくガラスのようで、研究材料のようだとは感じつつ、ある程度まで作者の確信や度胸で遅疑なくキューと描かれている輪廓のつよさ、鮮明さに、錯倒的現実感をひき起されるであろう。(私どもは、嘘をあんまり、はっきり、自信をもっていわれるとかえって自分が怪しくなるのを知っている。)
 青野季吉が、この「紋章」にすっかり「圧迫され」批判どころか横光の「自由の精華」の前で掌をすり合わしている姿は、一つの歴史的な見ものである。一般の読者にとって「紋章」の魅力あるゆえんは、作品が今日のインテリゲンチアとして共通な、社会的要因の下に立っていることと、たとえ独断であろうと作者の知的主張が水際だって強いことにあるとともに、読者の胸に現実の問題としてのこされる漠然たる疑問――ここにいわれているような自由[#「自由」に傍点]は常にどこにおいてでもなり立つものであろうかという、煙のように日常の生活から湧く疑い、それはとつおいつものを考える癖に陥っているインテリゲンチアに一つのかみ切ることのできない観念的餌食を与えることとなって、作品の刺戟と魅力の一部を構成しているのである。
 まず以上のように、からまっているさまざまの蜘蛛の糸を払って、むき出しに「紋章」を眺め、横光によってたどられた自由建設の道行きを調べると、私どもは、いわゆる高邁な文学的業績を熱愛する作者が、実は案外、単純で、楽な道具だてだけをこの作品のために拾ってきている事実を見出すのである。
 総体がリアリズムによって書かれているのではないことを一応認容した上で、これはいえることなのであるが、久内が自由の精神によってもって立つ人間と自覚し得るに到るために、作者は久内に多岐多様な内的苦悩を経験させているとは決していえないのである。
 雁金という人物は、非行動的で、自意識の過剰になやむインテリゲンチア山下久内に対照するものとして、単純な、変りものの発明狂、行動者として扱われているばかりでなく、作者は、はじめから、久内が「同情し得る」程度の条件しか持たぬ人物としてこしらえている。雁金のお人好し、単純性は、変りものの発明家などにはそういう気質のものがあるという意味で「紋章」にすくい上げられているのではなく、久内に配合して久内を破綻せしめず目的の「自由」へ送りこむために便利な単純性に、現実の体を与えれば、雁金のような発明家でもつくるしかなかったと思われるのである。
 横光は「敵なればこそあの人の行動は、僕にとって何よりも自由という精神を強く教えてくれたのだ」と久内にいわせているが、敵として雁金の持っている内容は、ある精神力の水準に到達した知識人にとって、大した困難なく超越して、対手を同情し得る種類のものである。久内に対する雁金の敵としての関係は、外部的なものであって本質的なものではないのである。もし知識人にとって、現在あるがままの知識人であることに疑いを抱かせ、その精神を混乱せしめ従って社会的存在意義を危うくするものが敵であると考え得るならば、横光は、なぜ一人の実践力あるマルキシストを作中にひきこんでこなかったか。(たとえ転落しようとも、再び立ち上る力を客観的必然として持つのはマルキシストであるのだから。)
 雁金のかわりに、こけつまろびつしつつも、結局は行動性のチャムピオンであるそのような人物が試験管に投げこまれれば、久内はもっと沸騰し、上下に反転し、煙を立て、作者の知的追求に対しておびただしい多彩な醗酵の過程を示さざるを得なかったに違いない。それを横光の如き野心あり、発展性ある作家がどうしてやって見なかったか? 答は明瞭であると思う。横光はそのような冒険で、万一久内が対立人物と同化してしまったり、あるいは久内ともう一人の人物がもみあったまま、ついに「紋章」という一定の実験室的目的をもったガラス試験管が爆発してしまったりしては、何にもならない。そのことをよく心得ているのである。
「紋章」は初めから作者によって準備されている一定の結論のために、限度をあんばいして配置された人物の動きによって、全篇をすすめられているのである。
 ここで、私たちはもう一遍、横光の主張する自由[#「自由」に傍点]への道が、どのような社会的モメントに置かれているかということを、「紋章」についてたずねてみよう。久内は「俺は真をも善をも知ろうとは思っちゃおらんのだ。俺は他人に同情できればそれで満足なんだ」とうめいている。
 雁金を窮地におとしいれた父山下博士に対しても別居をやめてかえった久内は「父を見ても予期していたような対立的な重苦しさを感じない」それというのも「海中深く没してしまった自分の身の、動きのとれぬ落付きでもあったろう」としんみり述懐しているのである。父が破産するに及んで月給取りになった久内は、こうもつぶやいている。「むかし自分の頭を占めて離れなかった雑多な思想を思い浮べてみることもあったが、それらはことごとくからまり合った一連の網となって、頭上はるかな高い海面でただ揺れ動いているかのように見えるだけだった」そして、月給日など「裏町の小路をのっそりと歩いたり、なんかガスのように下方をはい流れているうつらうつらとして陰惨な楽しみに酔う自身の姿に気がついて、なるほど世に繁茂する思想の生え上った根もとはここなのかと、はっと瞬間目醒めるように眼前の空間の輝きわたるのを意識した。けれでも、そのたびに『いや、眠れ、眠れ』と、彼は自分にきかす子守唄をうたうのである。」
 私どもはこのような行文を読んで、これはまことに正宗白鳥の小説の中の文章ではないのかと、おどろいてそれが横光の作中にあることを考えなおす次第である。
 久内はかかる気持で生きつつある男なのである。このように沈下した精神状態は、心理学の教科書によらずとも、およそ外界の事件に対して共感、同情のひき起され難いものであることは明らかではないかと思われる。
 久内は自分を、雁金というドン・キホーテについてゆくサンチョであるというが、サンチョ・パンサはなぜドン・キホーテにくっついて行ったのであろうか。ドン・キホーテの単純な私心ない行為に「負かされ詰めだけれども、結果としてとうとう僕の方が勝ったのだ。ところが、こいつは誰にも通じやしない。もっとも僕は通じなくたって悲しんでやしないがね」という独善的な結論をかためるためにくっついて行ったのではなかったことは、分明なのである。
 この場合、ドン・キホーテになぞらえられている発明家という人物を、さっきのように一行為者としてのマルキシストに置きかえて横光の以上のような結論の性質を観察して見るとしたら、私たちの感想は、これを何と表明したらよいであろうか。

 横光利一という作家は、頭脳のある程度の緻密さと、作家として大切な生理的気力を持ち、そうざらにはない男というべきであろう。その横光にして、久内によって代表されるインテリゲンチアというものがなぜ常に自分たちの「思うことと実行することが同一になって運動し」ないことについて苦悩しなければならないかという、その制約の根源をあばく気魄がないのであろうか。酵母についての科学的知識を示すならば、どうして、インテリゲンチアの生活解剖に、社会科学を活動せしめるに堪えなかったのであろうか。
 久内が、父の山下などと茶の湯をやる、茶の湯の作法を、横光は丹念に書いて「戦乱の巷に全盛を極めて法を確立させた利休の心を体得することに近づきたいと思っている」久内の安心立命、模索の態度を認め、更に「わが国の文物の発展が何といっても茶法に中心を置いて進展してきている以上は、精神の統一の仕方は利休に帰ってみることがまず何よりの近路に相違ない」「なるほど、茶法の極意を和敬清寂と利休のいったのに対して、それを延して、人に見せるがためにあらず自己の心法を観ずる道場なりと変化さし得て今に至ったことは、ここに何事か錯乱を妨ぐ精神生活者の高い秘密がある」と直覚した久内に、全く賛同しているのである。
 ビヤホールで、賢くも確りもしていない善作に向い久内である作者が説明した自由の「自分の感情と思想とを独立させて冷然と眺めることのできる闊達自在な精神」なるものは、そうして見ると、動的なものではなくて、ある身構えによって輪廓づけられているところの日本的な虚無感の充実にすぎぬという結果が出て来るのである。身を深く海中に没し云々というくだり、自分に唄う子守唄のところ、そこに出ている久内の生活の調子の実際のひくさは、ただひとえに、彼自身が、ひとに分らなくても悲しくはないぞといいつつ主観的に強調している自意識の自由感[#「自由感」に傍点]によって辛くも合理化され、彼を自殺から救っていると見られるのである。
 パスカルだの、プロメシウスだの、ヨーロッパの文学の中からの言葉が「紋章」の中には散見するのであるが、精神的高揚の究極は茶道の精神と一脈合致した「静中に動」ありという風な東洋的封建時代の精神的ポーズに戻る今日のインテリゲンチア作家の重い尾※[#「骨へん+(低−イ)」、読みは「てい」、第3水準1−94−21]骨は、年齢を超えて正宗にも横光にも全く同じ傾向をもって現れている。このことは驚くべき意味深い事実である。横光の場合主観的な知的逞しさは感覚されているのだが、本当の社会的な意味でひるむところのないインテリゲント、実行力としての現実的内容をもつ理智は獲得されていない。
 春山行夫という批評家は、その人としてのいい方で、横光の自我は現実を裁断する力がないから未完成である、といっている。これは普通の言葉でいうと、横光の生活的作家的生きかたは、要するに頭の中だけで問題をこねているから、まだであるということになるのであろうと思う。

 工場で十三時間の労働をしている大衆にとって、また、山ゴボーの干葉を辛うじて食べて娘を女郎に売りつつある窮乏農民にとって、この「紋章」は今日何のかかわりがあるであろうか。そういう感想は全く自然に起るし、いまさらびっくりするほどインテリゲンチアの問題に終始しているブルジョア文学のことが勤労階級にとって何の連関があるだろうと一応はつきはなせないものでもなく思える。しかしながら、われわれがなおこれをとりあげ吟味するのは、これらの作家たちの作品を機械的にプロレタリア文学の立前と照らし合わせてそれが非現実的な、主観的作品だときめつけるのが眼目なのではなくて、われわれが生き、たたかい、そしてそれを芸術のうちに再現しようとしているこの社会的現実のうちに、彼らをしてそのような作品をかかしめている要因があるということ、それを文学の面においてはブルジョア文学の作品形象のうちにとらえ、理解すること、これが私た
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