は現実を裁断する力がないから未完成である、といっている。これは普通の言葉でいうと、横光の生活的作家的生きかたは、要するに頭の中だけで問題をこねているから、まだであるということになるのであろうと思う。
工場で十三時間の労働をしている大衆にとって、また、山ゴボーの干葉を辛うじて食べて娘を女郎に売りつつある窮乏農民にとって、この「紋章」は今日何のかかわりがあるであろうか。そういう感想は全く自然に起るし、いまさらびっくりするほどインテリゲンチアの問題に終始しているブルジョア文学のことが勤労階級にとって何の連関があるだろうと一応はつきはなせないものでもなく思える。しかしながら、われわれがなおこれをとりあげ吟味するのは、これらの作家たちの作品を機械的にプロレタリア文学の立前と照らし合わせてそれが非現実的な、主観的作品だときめつけるのが眼目なのではなくて、われわれが生き、たたかい、そしてそれを芸術のうちに再現しようとしているこの社会的現実のうちに、彼らをしてそのような作品をかかしめている要因があるということ、それを文学の面においてはブルジョア文学の作品形象のうちにとらえ、理解すること、これが私た
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