ころの日本的な虚無感の充実にすぎぬという結果が出て来るのである。身を深く海中に没し云々というくだり、自分に唄う子守唄のところ、そこに出ている久内の生活の調子の実際のひくさは、ただひとえに、彼自身が、ひとに分らなくても悲しくはないぞといいつつ主観的に強調している自意識の自由感[#「自由感」に傍点]によって辛くも合理化され、彼を自殺から救っていると見られるのである。
パスカルだの、プロメシウスだの、ヨーロッパの文学の中からの言葉が「紋章」の中には散見するのであるが、精神的高揚の究極は茶道の精神と一脈合致した「静中に動」ありという風な東洋的封建時代の精神的ポーズに戻る今日のインテリゲンチア作家の重い尾※[#「骨へん+(低−イ)」、読みは「てい」、第3水準1−94−21]骨は、年齢を超えて正宗にも横光にも全く同じ傾向をもって現れている。このことは驚くべき意味深い事実である。横光の場合主観的な知的逞しさは感覚されているのだが、本当の社会的な意味でひるむところのないインテリゲント、実行力としての現実的内容をもつ理智は獲得されていない。
春山行夫という批評家は、その人としてのいい方で、横光の自我
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