。それは、明治文学の記念碑的長篇「夜明け前」を『中央公論』に連載中の島崎藤村はもちろん、永井荷風、徳田秋声、近松秋江、上司小剣、宮地嘉六などの諸氏が、ジャーナリズムの上に返り咲いたことである。
このことは、ブルジョア文学の動きの上に微妙な影響を与えたばかりでなく「ナルプ」解散後のプロレタリア文学にもある反響をあたえた。それについてはのちにふれることとして、ちょうど前後してある意味ではいわゆる文壇を総立ちにさせた一作品が『文芸』に発表された。龍胆寺雄の「M子への遺書」という小説である。
「M子への遺書」はいわゆる文壇の内幕をあばき、私行を改め、代作横行を暴露し、それぞれの作家を本名で槍玉にあげたことを、文学的意味ではなく、文壇的意味において物議をかもし出したのであった。
ある作家、編輯者はこの作に対して公に龍胆寺に挑戦をしたり、雑誌の六号記事はどれもそれにふれる有様であったが、この作品は、文壇清掃の初歩的な爆弾的効果をもはたさず、いわば作者一人の損になってしまった形で終った。
ブルジョア文壇への登龍門があるとすればそれには就職運動と同じようにさまざまのブルジョア的なひき[#「ひき」に傍点]がからんでいること、今日文壇に出ようと思えば銀座辺のはせ川とかいう店で飲まなければ駄目だとか、公然の秘密となっている菊池寛を先頭としてのさまざまの程度の代作あるいは放蕩、蓄妾その他は、ブルジョア風な世界観に支配されているブルジョア社会の一部である文壇において決して意外のことではないのである。「M子への遺書」の作者が、どのような内心の憤激と自棄にかられてあの作をかいたか分らないけれども、もし、真面目にそれらの社会的腐敗を作家として問題にするのであれば、全く別のやりかたでされなければならなかったであろうと思う。ブルジョア文壇に悪行があるとすればそれはとりも直さずその作家たちの属する社会層の悪行であり、その根絶への方向は、一作家の文壇の枠内でのジタバタ騒ぎにすぎないことはわれわれの目に明らかなのである。
さて再び、自然主義以来の老大家の作品とその影響とに戻ってみよう。
これら一連の老大家たちの作品の中で、よかれあしかれ最も世評にのぼったのは荷風の「ひかげの花」であった。当時、批判は区々であったが、大たい内容はともかく荷風の堂に入ったうまさはさすがであるという風に評価された。そのう
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