まさ[#「うまさ」に傍点]を買わないで、内容にふれた世評をするのは文学を理解しないものであるかのように考えられた。荷風が小説家としてたたき込んだ芸[#「たたき込んだ芸」に傍点]が云々された。しかしそのうまさというものも、内容の調子の低さにふさわしく紅葉時代硯友社の文脈を生きかえらせた物語体であり、天下の名作のようにいわれた谷崎潤一郎の「春琴抄」がひとしく句読点もない昔の物語風な文章の流麗さで持てはやされたことと思い合わせ、私は日本の老大家の完成と称するものの常態となっているような文学上の後ずさりを、意味ふかく考えるのである。
 さらに我々の深い注意と観察を呼ぶことは、一方においてジイドやドストイェフスキーやシェストフや、盛に深刻強烈なジリッと迫った心境を求めているかのように見える作家たちが「ひかげの花」に取扱われているそれとは全く反対の生ぬるい、澱んだ、東洋風の諦観に貫かれているのでもなければ、フィリップの作のように、生活への愛に満されているのでもない、ずるずるべったりの売笑婦とその連合いとの生活を描く作者の心境に対してはっきりした軽蔑を示し得なかった事実である。私はこのことをもう一度後段でとりあげたいと思うが、荷風が往年特徴としたデカダンスの張りあいない腰をおとした作家的態度を見すごすこと(実質的にはそういうものへの妥協)は、何か後輩の大人らしさという風にポーズされ、この「ひかげの花」は「春琴抄」とならんで、一般文学愛好家の間にまでいわゆる文章道の職人的手腕に対する関心をかき起した。
 今日の社会的段階にあって、リアリズムはそれが客観的現実を反映するリアリズムであるならば社会主義的リアリズム以外に内容され得ない。その必然を理解しないでふるい世界観のうちに閉されている作家たちが、若々しい年齢にもかかわらず、荷風のあるうまさ[#「うまさ」に傍点]だけを切りはなして問題にしたことは十分うなずけるが、この職人的な腕を作品の持つ社会的歴史的価値から切りはなして、評価する誤りにはプロレタリア文学を創ろうとしている一部の作家たちもまきこまれた。
 やはり、リアリズムの不確実な理解に煩わされて、現実にきりこむ作者の態度と血の通ったつながりにおいて文章のうまさ[#「うまさ」に傍点]を見ようとせず、ただ作家には技術が必要であるという、文学における階級性以前の立場から「春琴抄」のうまさ
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