、今は、行動へ、明るさ朗らかさへ、野生で溌溂たる生へ! と落付かぬ眼差しを動かしているのである。けれども、このはっきりした基準のない行動への衝動欲求は、非常に多くの危険と文学の崩壊の要素をふくんでいると思われる。
 行動が、歴史の積極面と結合して階級移行の方向になされ、質的変化を可能とする見とおしに立つのでなければ、この現実の客観的情勢のうちで、しかもマルクス主義のこちら側で、どのような質的内容をもった新しい行動が文学において可能であるだろうか。ファッシズムや、エロティシズムの方向をとることはさし当り見易い一つの危険である。雑誌『行動』主催で、文学の指導性座談会が催された席上で、文学における行動性について、たとえば新居格は「なんでもいいからやれば宜いと思うんだ」といっている。さらに指導性について、各自意見の混乱を示している中で、阿部知二は、はっきりファッシズムに興味をもち、人にきいたり一生懸命研究してみるつもりであると断言しているし、フランスから新帰朝の小松清はジイドの文学的節操に感歎しつつ文学における性問題のおし出しに力を入れているのである。また、自分の文学に指導性はないといいつつ中河与一は、ぼんやりとながらイギリス、アメリカなどの国家社会主義的経済統制を根源とするナショナル・サルベーションの傾向(民族自救とでもいう意味であろう)に興味を示している。これらは彼らによって討議された文学における行動性、指導性、民族性の問題にふくまれている危険であるが、この座談会で、ただ一つ文学にとって積極的なモメントとなり得る諸氏共通な欲求が認められた。それは「文学が怒りを持たねばならぬ」ということにおいて一致した見解である。
 もちろんこのことも、漠然とした、そして瑣末的な実例について語られ結果はアイマイになっているのであるが、積極性に発展し得る小さいモメントをもわれわれはまめ[#「まめ」に傍点]にとりあげ、勤労階級の文学的実践をとおして彼らのうちにいささかなりともある芽をひき出さねばならないであろうと思うのである。
 本年は『百鬼園随筆』をはじめ非常に随筆集が出た年であった。またバルザック、ツルゲーネフ、チェーホフ、ジイドの全集、ついにシェストフの全集まで出版されるらしいが、それはどういう社会的情勢を反映するものであったかということにも言及すべきである。しかし今は時間がなくなった
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