ちの目的である。なぜならば歴史の今日の段階にあっては、ブルジョア・インテリゲンチア作家をそのように一見高そうで実は低いところへつなぎとめている封建的力が、現実にはプロレタリア作家のうちにも何らかの形で影を投げているのであるし、その解決は、本質上、彼らの仕事ではあり得ず、勤労階級の仕事だからなのである。
もう一つ二つわれわれの見落してはならぬことがある。本年も終りに近づいてから、舟橋聖一などによって、目下のところでは未だ方向の明らかにされていないインテリゲンチアの行動性を煽る「リベラリズム」という立場が主張されて、「ダイヴィング」などという作のでてきていること、支配階級の大衆的文化政策としてラジオのみならず出版界に宗教復興が大規模に企画されはじめている。それを反映して、本荘可宗が巧に不安の文学提唱に際してかつぎ出され流行しているドストイェフスキーを捕えてきて「新しき文学と宗教的慧智」というような論文を書いていることなどである。『三田文学』の十一月号には岡本かの子が「百喩経」という小説を書いていた。パリへ行ってきたことまでもある彼女は、「仏教と文芸はむしろ一如相即のものである」ことを主張し、たとえば「愚人食塩喩。塩で味をつけたうまい料理をよそで御馳走になった愚人がうちへ帰って塩ばかりなめてみたらまずかった」というような前書で、それを形象化しようとしたコントを書き、そういうものをいくつか一篇として並べているのである。
この作品一つでどうなるというほど強烈なものではないけれども、横光に見るような主観的な高邁への憧憬にしろ「ひかげの花」の地につくばった生き方にしろ、宗教的なものにずり込む可能性は多分にある。岡本一平はなまじかの禅臭で自身の漫画をついに鋭い諷刺にまで高め得ずにいることは、小説とはちがうが、興味ある教訓である。
舟橋聖一のリベラリズムは、手をこまねいて情勢に圧されているインテリゲンチア作家の態度を不甲斐ないものとし、ニヒリズムでも、厭世論でも、そう信じるなら、そう叫べというのであり、「知識階級本来の面目である闘争的な良心的な姿をとり戻せ」と主張しているのであるが、この行動性の要求は、石坂洋次郎の作家としての立前およびそれを評価した一般の空気の中にもただよっていた要求である。
不安の文学の提唱も大して体系的に深められぬまま、すでにこれらの人々は考えるに飽き
前へ
次へ
全18ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング