ころの日本的な虚無感の充実にすぎぬという結果が出て来るのである。身を深く海中に没し云々というくだり、自分に唄う子守唄のところ、そこに出ている久内の生活の調子の実際のひくさは、ただひとえに、彼自身が、ひとに分らなくても悲しくはないぞといいつつ主観的に強調している自意識の自由感[#「自由感」に傍点]によって辛くも合理化され、彼を自殺から救っていると見られるのである。
パスカルだの、プロメシウスだの、ヨーロッパの文学の中からの言葉が「紋章」の中には散見するのであるが、精神的高揚の究極は茶道の精神と一脈合致した「静中に動」ありという風な東洋的封建時代の精神的ポーズに戻る今日のインテリゲンチア作家の重い尾※[#「骨へん+(低−イ)」、読みは「てい」、第3水準1−94−21]骨は、年齢を超えて正宗にも横光にも全く同じ傾向をもって現れている。このことは驚くべき意味深い事実である。横光の場合主観的な知的逞しさは感覚されているのだが、本当の社会的な意味でひるむところのないインテリゲント、実行力としての現実的内容をもつ理智は獲得されていない。
春山行夫という批評家は、その人としてのいい方で、横光の自我は現実を裁断する力がないから未完成である、といっている。これは普通の言葉でいうと、横光の生活的作家的生きかたは、要するに頭の中だけで問題をこねているから、まだであるということになるのであろうと思う。
工場で十三時間の労働をしている大衆にとって、また、山ゴボーの干葉を辛うじて食べて娘を女郎に売りつつある窮乏農民にとって、この「紋章」は今日何のかかわりがあるであろうか。そういう感想は全く自然に起るし、いまさらびっくりするほどインテリゲンチアの問題に終始しているブルジョア文学のことが勤労階級にとって何の連関があるだろうと一応はつきはなせないものでもなく思える。しかしながら、われわれがなおこれをとりあげ吟味するのは、これらの作家たちの作品を機械的にプロレタリア文学の立前と照らし合わせてそれが非現実的な、主観的作品だときめつけるのが眼目なのではなくて、われわれが生き、たたかい、そしてそれを芸術のうちに再現しようとしているこの社会的現実のうちに、彼らをしてそのような作品をかかしめている要因があるということ、それを文学の面においてはブルジョア文学の作品形象のうちにとらえ、理解すること、これが私た
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