いものであることは明らかではないかと思われる。
 久内は自分を、雁金というドン・キホーテについてゆくサンチョであるというが、サンチョ・パンサはなぜドン・キホーテにくっついて行ったのであろうか。ドン・キホーテの単純な私心ない行為に「負かされ詰めだけれども、結果としてとうとう僕の方が勝ったのだ。ところが、こいつは誰にも通じやしない。もっとも僕は通じなくたって悲しんでやしないがね」という独善的な結論をかためるためにくっついて行ったのではなかったことは、分明なのである。
 この場合、ドン・キホーテになぞらえられている発明家という人物を、さっきのように一行為者としてのマルキシストに置きかえて横光の以上のような結論の性質を観察して見るとしたら、私たちの感想は、これを何と表明したらよいであろうか。

 横光利一という作家は、頭脳のある程度の緻密さと、作家として大切な生理的気力を持ち、そうざらにはない男というべきであろう。その横光にして、久内によって代表されるインテリゲンチアというものがなぜ常に自分たちの「思うことと実行することが同一になって運動し」ないことについて苦悩しなければならないかという、その制約の根源をあばく気魄がないのであろうか。酵母についての科学的知識を示すならば、どうして、インテリゲンチアの生活解剖に、社会科学を活動せしめるに堪えなかったのであろうか。
 久内が、父の山下などと茶の湯をやる、茶の湯の作法を、横光は丹念に書いて「戦乱の巷に全盛を極めて法を確立させた利休の心を体得することに近づきたいと思っている」久内の安心立命、模索の態度を認め、更に「わが国の文物の発展が何といっても茶法に中心を置いて進展してきている以上は、精神の統一の仕方は利休に帰ってみることがまず何よりの近路に相違ない」「なるほど、茶法の極意を和敬清寂と利休のいったのに対して、それを延して、人に見せるがためにあらず自己の心法を観ずる道場なりと変化さし得て今に至ったことは、ここに何事か錯乱を妨ぐ精神生活者の高い秘密がある」と直覚した久内に、全く賛同しているのである。
 ビヤホールで、賢くも確りもしていない善作に向い久内である作者が説明した自由の「自分の感情と思想とを独立させて冷然と眺めることのできる闊達自在な精神」なるものは、そうして見ると、動的なものではなくて、ある身構えによって輪廓づけられていると
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