くファッシズム文学とに対抗してあげられたブルジョア純文学作家たちの気勢であったとも見られる。
この気運の具体化された一例は、昨年末から今年の初めにかけて『文芸』の発刊その他無数の文芸同人雑誌が刊行されるようになったことにも現れていると思う。
さて、文芸復興の声はこのようにしてブルジョア文学の全野に鳴りわたったが、矢つぎ早に問題が起った。実際の作品の上ではちっとも文芸復興らしい活躍が示されないではないか、はたして文芸は復興したか? という疑問である。
その解決を求めて、今年のブルジョア文学は前例ないほどドストイェフスキーやバルザック、ゴーゴリなど外国の古典的作品の再検討をとりあげ、明治文学研究も行われた。(「浪漫古典」の森鴎外、二葉亭四迷、漱石などの研究特輯、佐藤春夫「陣中の竪琴」など)リアリズムの問題も、プロレタリア文学運動に新たな方向を与えた社会主義的リアリズムについての究明と呼応して取りあげられたのであるが、私たちの注意をひく点は、ブルジョア文学におけるこれらの諸課題=リアリズムの問題も、外国の古典作品の研究、明治文学の再吟味などすべてが、文学創作にとって実際上新生面を打開する積極的な役割ははたし得ず、かえって抽象的な不安とともに文学の論争を流行させる結果にたちいたったことである。
今日の情勢は、ブルジョア作家の各人の日常の生活現実にも影響して、その経済的基礎を脅かし、思想の自由を抑圧している。プロレタリアートの組織は極度に破壊されているし、よしんばそれがどこかにあったとしても小市民的インテリゲンチアの日常の救いにはならない。このように不安な時代に生れる文学はリアリズムの方向にもどるにしろ当然かくの如きインテリゲンチアの不安を語り、摘発し、解決する文学でなければならない、というのがその論拠であったと考えられるのである。
そういう社会的不安を反映する文学の創作についての問題を究明するに当って、ブルジョア作家たちのとった態度は、注目すべき一風変ったものがあった。それらの作家たちは、日本の今日の階級社会の生活が現実として彼らにも与えている苦悩、不安、社会的根源をついてそれを芸術化し、作家としての彼らの生活までを改革の方向に向わせるような実践的な努力はせず、不安の文学の手本をフランスに求めた。そして、かつて動揺していた時代のアンドレ・ジイドの低迷的な作品や正統
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