一つの出来事
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)逼塞《ひっそく》
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        一

 二階の夫婦が、貸間ありという札を出した。これは決して珍らしいことではない。この湖畔の小村では、夏になると附近の都会から多勢の避暑客が家族連れで来るので、大抵の家は二間三間宛よぶんな部屋を拵えて、夏場に金を儲ける工夫をしている。六月も中頃になって、ニューヨークの激しい炎熱が、黒いアスファルトを油臭く気味悪く溶かし始めると、この村の古い街路樹に包まれた家には一斉に“Furnished rooms”という札を往来にまで張り出す。そして、秋風立って旅客をまたもとの都会に送り帰すまで数箇月の間を、家族は小さくどこかの隅に逼塞《ひっそく》して、外来の者のために部屋部屋を提供するのである。それ故あまり豊かでない夫婦が空間《あきま》を貸す計画を立てたということは決して驚くべきことではない。むしろ当然なことともいうべきなのである。けれども、それを見ると、一緒に私共は思わず、まあ、あのお婆さんに貸す部屋があるの? と云った。私共の知っているお婆さんの二階は狭くて、とう
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